八月の読書日記。好みとしては米澤穂信、恒川光太郎がお気に入り。ミステリ、推理が割と好き。自分から手を出すことは少ないが、推されると弱い。基本的に濫読派。 不定期更新です。キーワードは『宵の徒然』
大学の友人の一人がTwitterを始めたということで、彼を中心とする僕ら仲良しグループ(!?)はこれまた一斉に始めたmixiからTwitterに徐々に移行する運びとなりました。
mixiもそうですが前々からTwitterをやっていたわたしは最初は彼の「Twitter始めた! フォローよろ」という趣旨のmixiボイスをスルーしていたんですが面と向かって「始めなよ」と言われてしまえばごまかすこともできずに素直に自分のアカウントを明かして彼と相互フォローと相成りました。
うむ。独白の場で隠し立てをしてもどうしようもないので白状するとはっきり言ってTwitterのような自己の拡張の場までリアルに晒さないとならないというのはなかなか気分を重くさせるものでした。
ただでさえ最近リアルの人間関係に不満を薄く薄く重ね初めていてネガティブ入った意味深なツイートばかりしていた(気がする)のだからなおさらです。
確かにmixiボイスとTwitterは共有していたけどmixi(リアル)とTwitterの線引きはしていたつもりです。つまりTwitterのポスト>mixiボイスのポストという状況。mixiボイスに投稿したものはTwitterにも自動投稿され、Twitterにしか投稿したくないものは直接投稿していたからです。
人間関係に不満を持つ仲良しグループ(!?)に不満を持って愚痴をこぼすなんてお前は中学生かよといった感じですがマジです。我ながらこんなことになんで気分を重くしているのだろうと自問することしきり。『友達いないと不安だ症候群につける薬』(齋藤孝/朝日新聞社 2005)でも読んでろって話で。
以前読んだ評論には
「ネットのサービスの充実によって自己が拡大している。
著者だけがいっぱいいてしかし編集はいない。脳内で発生した言葉を即座に 世間の衆目に晒す事ができる
普通であれば著者⇒編集⇒出版(世間へ)という流れが、著者⇒世間というようになっている。
自己の考えを世間に発信するための垣根が低くなって(もしくはなくなって)、それはすなわち自己が拡大している。
世間なんで「自己」と「世界」の「間」なんてなくなっている」
とい内容の事が書いてあったように思うけれど(うろ覚え)、脳内に浮かんだ言葉を直接垂れ流しているmixiボイスやTwitterや、あるいはブログだって、拡大した自己そのものなのですね。
自分の脳内を直接晒しているそれは、例えば私なんかは自分の中だけでなく何らかの形で外に出したいと思っているフシがあります。だから彼がコミュニケーションツールとしてTwitterをはじめる前々からTwitterをやっていて、リアルには晒せない自分の中身としてつぶやいていたのでしょう。このブログだって同じです。そういう意味ではごくごく少数を除いてリアルの友人よりもネットを通じてであったごくごく少数の友人の方がわたしを知っているかもしれない。
もちろん、作家がいっぱいいて、いっぱい世間に自己を発信しようとも、読者がいるかどうかはわかりません。著者は読者がいなくても存在するけれど読者は著者がいないと存在しないのですから常に著者は供給過多なのです。ごくごく少数のネット越しの友人がわたしの発信したものに目を通したかなんてわかりません。ネット越しの友人の方がわたしを知っているかもしれないというのはあまりに楽観的にすぎるものです。
見られていてもいなくても、発信したいのです。
ただ、それを例えば大学の友人のようなリアルには発信したくないのです。特に彼らが当事者となるような愚痴なんて。
というわけで受験期にTwitterを見る時間を少しでも減らすためにフォローを絞ったロム専アカウントを「現実逃避垢」と名付けてそこに自己の内側を拡張することにしましょう。
リアルに向けた外面を取り繕う。ネット上でも。
なんでこんな面倒なことしてるんだろうね。
その評論では
「編集いなくなることで程度の低い文章が世間に溢れかえる」
ということもやや問題視していました。
程度の低い文章を晒してしまって申し訳ない
とかなんとか
ツイート
mixiもそうですが前々からTwitterをやっていたわたしは最初は彼の「Twitter始めた! フォローよろ」という趣旨のmixiボイスをスルーしていたんですが面と向かって「始めなよ」と言われてしまえばごまかすこともできずに素直に自分のアカウントを明かして彼と相互フォローと相成りました。
うむ。独白の場で隠し立てをしてもどうしようもないので白状するとはっきり言ってTwitterのような自己の拡張の場までリアルに晒さないとならないというのはなかなか気分を重くさせるものでした。
ただでさえ最近リアルの人間関係に不満を薄く薄く重ね初めていてネガティブ入った意味深なツイートばかりしていた(気がする)のだからなおさらです。
確かにmixiボイスとTwitterは共有していたけどmixi(リアル)とTwitterの線引きはしていたつもりです。つまりTwitterのポスト>mixiボイスのポストという状況。mixiボイスに投稿したものはTwitterにも自動投稿され、Twitterにしか投稿したくないものは直接投稿していたからです。
人間関係に不満を持つ仲良しグループ(!?)に不満を持って愚痴をこぼすなんてお前は中学生かよといった感じですがマジです。我ながらこんなことになんで気分を重くしているのだろうと自問することしきり。『友達いないと不安だ症候群につける薬』(齋藤孝/朝日新聞社 2005)でも読んでろって話で。
以前読んだ評論には
「ネットのサービスの充実によって自己が拡大している。
著者だけがいっぱいいてしかし編集はいない。脳内で発生した言葉を即座に 世間の衆目に晒す事ができる
普通であれば著者⇒編集⇒出版(世間へ)という流れが、著者⇒世間というようになっている。
自己の考えを世間に発信するための垣根が低くなって(もしくはなくなって)、それはすなわち自己が拡大している。
世間なんで「自己」と「世界」の「間」なんてなくなっている」
とい内容の事が書いてあったように思うけれど(うろ覚え)、脳内に浮かんだ言葉を直接垂れ流しているmixiボイスやTwitterや、あるいはブログだって、拡大した自己そのものなのですね。
自分の脳内を直接晒しているそれは、例えば私なんかは自分の中だけでなく何らかの形で外に出したいと思っているフシがあります。だから彼がコミュニケーションツールとしてTwitterをはじめる前々からTwitterをやっていて、リアルには晒せない自分の中身としてつぶやいていたのでしょう。このブログだって同じです。そういう意味ではごくごく少数を除いてリアルの友人よりもネットを通じてであったごくごく少数の友人の方がわたしを知っているかもしれない。
もちろん、作家がいっぱいいて、いっぱい世間に自己を発信しようとも、読者がいるかどうかはわかりません。著者は読者がいなくても存在するけれど読者は著者がいないと存在しないのですから常に著者は供給過多なのです。ごくごく少数のネット越しの友人がわたしの発信したものに目を通したかなんてわかりません。ネット越しの友人の方がわたしを知っているかもしれないというのはあまりに楽観的にすぎるものです。
見られていてもいなくても、発信したいのです。
ただ、それを例えば大学の友人のようなリアルには発信したくないのです。特に彼らが当事者となるような愚痴なんて。
というわけで受験期にTwitterを見る時間を少しでも減らすためにフォローを絞ったロム専アカウントを「現実逃避垢」と名付けてそこに自己の内側を拡張することにしましょう。
リアルに向けた外面を取り繕う。ネット上でも。
なんでこんな面倒なことしてるんだろうね。
その評論では
「編集いなくなることで程度の低い文章が世間に溢れかえる」
ということもやや問題視していました。
程度の低い文章を晒してしまって申し訳ない
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