最近「ブログの更新したいけれどネタがない」とか言っていたように、ちょっとブログの更新をしたい気分でした。
私の部ブログは本当にごく少数のいるのかわからないような読者に向けたもので、それこそ供給過多となっている作者の典型例のようなものです。
だから、基本的には何を書いてもいい。キーボドに向かって(カチャカチャカチャ…………ッターン!)としたいという欲求なのかもしれません。もしくはブラインドタッチの練習をしたいとか。
ネタがないけれどブログを書きたいってのはきっと文章が書きたい衝動なんだろうと理解するのですが、ではなぜ今やってるレポートは全然進まないのか。
今となっては大人気ソーシャルゲーム「アイドルマスターシンデレラガールズ」をやるだけのモバゲータウンとなってしまいましたが、中学時代に入会して高校2年から浪人生にかけてもっともSNSとして機能したモバゲーはそこそこ……いやかなり楽しかった。
日記を移植しながら当時の日記を読み返したりそのコメントを見たりしてるとなんか感慨深い。以前も言った気がするけれど、当時は日記を大量に生産しては大量に削除していたので記録がそこまで残っていないことが寂しい。
しかし一般的なモバゲーユーザー(知らんけど)に比べたらそこそこの量があるんじゃないだろうか。
日記を読み返すと痛々しいとまでは行かないが、「若かったんだなぁ」と思わないでもない。そんなの、この日記を読み返した将来の自分が間違いなく言う台詞だってのは重々理解していますけれどね。
日記を読み返す作業は好きです。そして日記をつける作業や時の自分の気持ちを叙述することも好きです。
自分にとっての世界というのは、自分の五感の及ぶ範囲のみ。当時の気持ちも時の自分の五感が及ぶ範囲のみによって形成される。そして、五感で捉えた「事実」の解釈はその時の考え方や持ち合わせている知識理解によってなされるもの。つまるところ、時間とともに世界は変化するものどころか、あまりに世界ってのは不安定で流動的で、だからこそ当時の世界を叙述したものを読み返すのは面白い。
人間は「記憶」や「予期」によって世界を四次元的に把握していて、それはつまり目の前に展開する世界だけでなく、過去や未来にあった世界や起こり得る世界を幻視することがでるってことだけれど、(こういう叙述をするとき、「人間だけが~できる」という叙述を見ることが多いけれど正直その言い方は好きません。たしかに人間はそうであるけれども人間以外がそうでないとはどうして言えるのか。それこそ、「自分にとっての世界は相手にとってもそうであるだろう」とする考え方ではないのかと。)その営みを真っ正面から行っていることになるんだね。日記を見返す作業というものは。
最近、「世界とは」「存在とは」「言葉とは」とかっていうどうにも哲学的な問いかけに直面することが多くて参る。
「哲学とは何ぞや」というというに対して「考え続けること」と答えた人は本当に的を射た答えだと思うけれど、同時に「何言ってんのお前」みたいにも思える。何も答えてなくねそれって。ただまぁ、事柄を「普遍性」「論理性」「客観性」で以て説明して答えを出そうってのは科学の仕事であって、近代の哲学は科学を否定するようなものだから、そういう意味では近代哲学にふさわしい答えとも言えるかもしれない。
なんなんでしょうねこの雑記とも言えない何かは
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