※※記録/回想※※ 我思えども我なし 忍者ブログ
八月の読書日記。好みとしては米澤穂信、恒川光太郎がお気に入り。ミステリ、推理が割と好き。自分から手を出すことは少ないが、推されると弱い。基本的に濫読派。  不定期更新です。キーワードは『宵の徒然』
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以前から何度かこのブログを始めとするどこかで引き合いに出していた、「インターネットやSNSの普及によって自己が拡大していく」という言説が一体どこから来ているのものなのか、ようやくわかりました。

以下引用
従来のメディアでは、個人が公に対して発言するには、その機会獲得などのさまざまな困難や、編集者などによる校閲が伴っていた。良くも悪くも、この距離こそ、思いを思考に、一面的な思念を客観的な意見へと練り上げるものである。
しかし、インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピュータに保存することと、ネット上に公開することとの差は、二、三のキー操作の差に過ぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは、〈発送〉と〈発表〉との間の落差がほとんど存在しない。(略)さまざまな情報とともに、何億もの個人のとりとめもない思いや理解や誤解がネット上にあふれる。これらは呼び出されなければ、無言のままにとどまっているが、ひとたび検索の網にかかれば、強大な力を発揮することになる。(黒崎政男『身体にきく哲学』NTT出版・2005年)
引用ここまで


高等学校の国語の教科書にも採用されているようで、よく考えたら模試か何かで読んだ気もします。
実際のところ、この本の主眼はインターネットの普及による自己肥大化ということには全く置かれていなく、この文章のあるところでは大まかに、
1、「世間」の縮小化
2、デジタルテクノロジーの普及によって「世間」にさらされた私の行動がデータベースされていく
ということの二点に置かれているようでした。

2、の私の行動がデータベース化されて行くというのは、単純にあちこちに履歴が残るということと、それを参照することで一瞬にしてそこに記録された「私(わたし)像」ができあがるということ。何か事件を起こすと卒業文集を晒されたり、ツイートを晒されたりして、「私像」が作り上げられて行くってやつですね。

本書では、その様子をフーコーの一望監視装置に例えていました。一望監視装置(パノプティコン)は、社会科の授業などでもやるのかもしれませんが、近代権力の様態を抽象化したもので、監視対象を主体的に従順なものにするというもの。
「いつ監視されているかわからない」状況に置いておくことで、「いまは見られてないから…」という慢心を起こさせず、囚人に常に従順な姿勢をさせることができるというものです。例えば、試験監督は、教室の前にいるよりも、教室の後ろにいて「見られていると学生に思わせる」ほうが試験の不正行為は減るといった論で使われます。確かに先生が教室の後ろにいると机の下で携帯をいじるわけにもいきません。
フーコーはこのような状態を、「自己の内面に監視者がいる」とし、「規律の内面化」としました(確か)。本書では、「規律の内面化」よりも、「いつ監視されているかわからない」ということに注目して、さらにその監視の履歴を参照することができるようになった。と言います。
このように絶えず監視され、有事の際は参照される私たちの記録ですが、何もインターネット上に発信したことだけに限るわけではありません。例えばインターネットの閲覧記録、例えば電車の乗車記録、例えば街中に設置された監視カメラ、例えばATMの利用記録、例えば電話の通話記録。 そこかしこで知らず知らずのうちに私たちは監視され、記録されています。

さて、上にあげた例のうち、一つはちょっとだけ持っている意味が違います。
それは街中の監視カメラ。
監視カメラが記録するものは私たちの物質的な身体を映したものです。他の例は電子的な情報を記録するものでこれだけわけが違います。この監視カメラの例で「私」を「私」として証明するものは私の身体ということになります。


最近はインターネット等のデジタルテクノロジーの普及によって、物質的な距離や空間はいとも容易く飛び越えることができるようになっています。映像の視聴、画像の閲覧、商品の購入、そしてコミュニケーションさえも。極論、Googleマップがあれば、現場に行かなくてもその様子は見ることができますし、絵を見るだけならば美術館に行く必要もありません。店舗を構える必要のないインターネット上のお店のほうが商品を安く売れますし、コミュニケーションが言葉を交わすことなら、遠隔的に言葉のやりとりができれば会いに行く必要なんてありません。
デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったように、私たちは身体なんて必要ない、思考する言葉さえあれば良い。
最近は、と言いましたが、インターネットの普及以前だって、TVだって遠隔地の情報を届けるもので私たちは自宅にいながら地球の裏側の情報を知り得ますし、そんなのはラジオだってそうですし、むしろ本だってそうですし、デカルトの言葉が残っていること自体が、私たちが身体を置き去りにして思考を主体として発展してきたことの証左と言えるでしょう。もっと言えば文字の発明が、私たちの言葉、つまり思考を、身体的なものから離脱させ、空間や時間といった三次元の物体的なものから乖離させたとも言えるでしょう。


しかし、「監視カメラに記録された映像によって私が私として認識される」というのは、私とから離脱していたはずの身体が、「私」を「私」として決定づけてしまうことになります。監視カメラに限らずとも、静脈認証や光彩認証などの生体認証が進んできたこともこの違和感に拍車をかけている。
「私」は「言葉」によって「私」になって「身体」は関係なかったはずが、「身体」によって「言葉」は関係なく「私」は「私」とされている。


「我思う故に我あり」じゃないんですか……




というのがざっくり、この本旨。

最近はSNS上で知り合った人と会ったり、地方に住んでる人が「東京○○」とか言っているのを妙な違和感を感じながら見てる。
こんなにインターネットやデジタルテクノロジーが進んでも、物質的な距離はいかんともし難い。
「私」を形作るはずの「思考」たる「言葉」を共有するのにはほとんど時間的空間的制約がなくなったのに、身体的物理的な距離は縮められない。
こういうことを考えるようになる、この本みたいなものが世に出るということが、文字の発明を皮切りに、「私」を「私」たらしめる「言葉」の共有で発展してきた歴史が行き着くところに行き着いたと示している感がありますね。
なぜって「言葉」と「身体」が一致ないし近い距離にあったときには、その乖離を話題にする必要がありませんもの。

結局、「我思う故に我あり」っていうのは、あまりにも全時代的な言葉過ぎ。
「言葉(=思う)」と「身体」が同じ空間にあったからこそ「身体はなくて言葉が私を私たらしめる」とわざわざ言う必要があったということ。


結局、「私」は「身体」から逃れられないのかなぁ……

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大学生
自己紹介:
血液型はA。好きな飲み物は微炭酸かコーヒー、紅茶。
右利き。携帯を左手で持つ。


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