アニメ化決定!!!(俺の中で)
最近ふっと買った本が2冊とも大当たりであまりにもウハウハな私であるが、その中でもこの本はあまりにも秀逸で、店頭に並ぶ数ある文庫本の中からこの本を拾い上げたあの日の自分をめちゃくちゃに褒め称えたい。
帯に寄せられたコメントなんかを鍵に買ったこの本だけど、実際に読み始めようとして、まず著者近影で「ぐえ」っと思った。同い年だ。
まぁ自分だってもういい歳なんだし、同い年どころか年下で売れっ子の作家なんてたくさんいるんだろう。
でも同い年っていうのはやっぱり特別だ。自分と同じ年に生まれた顔も知らない(近影が乗っているわけだが)誰かが、こうして努力の跡を一つの形に結集させたものがここにある。
同い年ってことは、(私は流行り廃りには疎い子供であり、今もそうだが、)同じ流行り物を見て、同じような気候や時勢の中で育っていたんだろう。
確かに、本人の人生に関わる体験や、そこに芽生える感情、同じ流行り物を見て感じたこと、同じ時勢の中にいて汲み取ったもの、それら「記憶」と呼ばれるようなものは異なるに決まっている。しかし、「記憶」の表層に沈み込んでいる「無自覚」とでも呼べるような、根底に流れるものは、もしかしたら、同じかもしれない。
作中で、「記憶」とは氷山に喩えられる。
水面より上に見えているものが、映像や音声、五感といった表層的なもの、水面化にあるものが、それら外界の刺激に対して発生した思考や感情と言ったものだと。
ただ、作中ではこうも言われている。
すなわち、氷山のもっとも深いところに潜んでいるものが「無自覚」だと。
「無自覚」の領域は記憶の氷山の中で最も大きな割合を占めている、「考えてみればわからないこともあれば、考えてみてもわからないくらい意識していないこともある。(略)その記憶を脳に刻み込むまでの『そいつの人生すべて』」(104-105頁)だと作中では評されている。
同い年ということは、もしかしてその「無自覚」に共通した知識や認識が刷り込まれている可能性がかなり高いのではないだろうか?
そんな、同じ流行り物を見て、同じような気候や時勢の中で育っていたんだろう作者の中から、類まれな作品が生まれてくる。これに憧憬を抱かないことはちょっと難しい。
本作は、「記憶の売買ができる『店』」を主軸に、平凡な主人公、自信に溢れた悪友、謎めいた可愛いヒロインで構成される、ミステリ作品だ。
「ミステリ作品だ。」?
確かに私はこれをミステリだと思ったから買ったのだけれど、これは多分、そういうふうにジャンルで語られるのがあまりにも勿体無い作品であろう。
これは、ミステリであり、また、青春小説なのだった。
本書の大まかなあらすじとしては、
平凡な主人公は何か「特別」になりたくて、でも自分は「特別」じゃないことを知っている。
ある日、妙に自信に溢れたクラスメートに声をかけられる。主人公は彼をうっとおしく思っていたが、よく連むようになった二人は、ひょんなことからの存在を知る。
妙に自信に溢れていて、目の付け所が人と異なる彼に巻き込まれるようにして、主人公と悪友は記憶を売買する『店』の営業マンとして、二人組で活動する。
人の「記憶」を売買する『店』に携わるものとして自分は「特別」だと感じる主人公。
そんな折、渋谷の路上で「神出鬼没」で「どこの事務所にも属さない」でも「熱狂的な人気」を持つ「流浪の歌姫」を見かける。曰く、彼女は「ある人」を探して日本全国を歌いながら彷徨っているらしい。
悪友は主人公に言う。「『店』は確かに特別だが、結局は世のサラリーマンと一緒だ。ここはいっちょ、『店』に集まる「記憶」を頼りに、歌姫の探し人を見つけて見ようじゃあないか」ーー
本書の構成としては、如何なミステリにも負けないくらい、緻密に作られている。
全く過不足のない、収まるところに収斂していく伏線。
きちんと読者に提示されている条件。
終盤に明かされる、特殊設定を活かしたトリック。
私は「特殊設定ミステリ」というのがあまりにも好きで、その根底にあるのが「逆転裁判」なのは疑うまでもないんだけど、本書は特殊設定ミステリが必ず必要になる、設定の説明を全然苦にならない形で行っていたことに後で気がつく。
本書はミステリの体裁、ミステリの文脈で、これ以上ないほど綺麗に「誰が、どうやって、どうして、何をしたから、この状況が生まれた」という謎を解き明かしていくのだが、一方であまりにも色鮮やかに主人公の身の回りの情景を描き出しているため、設定の説明が全く苦にならない。
(まぁ特殊設定ミステリ好きな人が、説明を読むことを苦にするなんてないんだろうけど)
それに、特殊設定の主眼である『店』のことを知ることは、主人公と共に、自分は「特別」なんだと感じることでもある。これが楽しくないわけがない。
解説があまりにも秀逸で、私が今更いうことなんてないので、一節をお借りしよう。
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彼らの悩みは普遍的であると同時に、現代的でもある。今はSNSを覗くと(引用者注・そういえばヒロインも既存のメディアではなく、SNSや動画投稿サイトによって人気を博している歌姫となっている)、すごい人がごまんといる。「町一番の○○」として胸を張っていられる時代ではない。自分の凡庸さを日々突きつけられる。自分が特別な存在だと無邪気に信じられる人は、ほとんどいない。だからこそ読者は、青年たちの悩みが身につまされる。あるいは懐かしい思いを抱く。若き日の古傷に手を当てながら青年を見守り、並走することとなる。(531-532)
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私も、主人公を通して、自信に溢れる悪友をちょっと苦々しく思ったりもするし、登場人物と心を交わしあったりする。自分は「特別」なんだと感じたり、凡庸さを突きつけられ、苦しくなったりする。
主人公と共に感じる、自分は特別なんだという「愉悦」や、「無力感」「怒り」そして「達成感」。もしかしたら話の主題とは違う、枝葉のようなドラマかもしれない。しかし、主人公を形作る、のちに「記憶」を呼ばれるようになるその体験を私は共にする。
だからこそ、最後のトリックが明かされた後も、私は主人公と共にあれる。並走することができる……
ちょっと横道にそれすぎた。特殊設定の説明が鮮やかなことはいい。本書はそういう類の「青春小説」だった!!
きっとこの小説は時が来たらコミカライズもされ、アニメ化もされるだろう。
主人公の約束は果たされるはずだ。そうあってくれ。
読了してみると、最初の悪友の登場シーンがすごく気になる。
彼はあのタイミングで、何をどこまで知っていたことになるのだろう。
普通に考えれば、「何も」だ。「何も知らずに」、ああして主人公に声をかけた。
それって、やっぱり根底に流れる「無自覚」のところで、主人公と悪友は友人だったっていうことなんだろうか。
本稿の引用は全て新潮文庫版(令和3年)によるものです
本自体はまだ買っておらず、むしろ文庫になってから買うつもりの不真面目なファンであったので、抽選に当たった時は素直に嬉しかったが少し気が咎める思いもあった。
だが、振り返ってみれば2014年に参加した『満願』サイン会も、2019年『Iの悲劇』のサイン会もその本はまだ読んでいなかった。
ところで、抽選に当たったことを知らせるメールには「レジで対象の書籍を購入し、参加券をお受け取り下さい」と書いてあるが、既に対象書籍を買っていた場合、二冊目を購入することになるのだろうか。一冊目をその本屋で買っていたとしても?
前二回の参加時のことをよく覚えていない。今回は買っていなかったので素直に対象書籍を買ったが、『満願』も『Iの悲劇』も自宅に二冊目があるわけではないので、きっと当日に買ったに違いないのだ。
なので、『満願』も『Iの悲劇』もサイン本をありがたく読んだに違いない。
今回の『黒牢城』もありがたく読むことにしよう。
ところで、二度目参加のサイン会後に読んだ『Iの悲劇』はかつて文芸誌で各話掲載されていた連作短編ということだ。ではあるが、書き下ろしの話を追加することで、各話の「小さな謎」が実は、一つの意志としての形を見せる「大きな謎」に包含されていたことがわかるという構成になっている。
その各話掲載されていたという事柄に由来する面もあるのかもしれないが、各話のタイトルがめちゃくちゃによくて、特に、それを包含した先にある表題『Iの悲劇』(と、何よりも最終話タイトル)が、読後振り返ってみて鳥肌が立つほどの連作短編を象徴するタイトルとして秀逸なものとなっている。
そのほかにも先生の作品群は読後にタイトルを確認して打ちのめされる、思わず涙ぐむ、そういった物が多くある。
『二人の距離の概算』なんかは十重二十重に意味を持たされた特に狙いすまされたタイトルなんだ……
が、その最終話のタイトルが、一見ほろ苦い青春文学に、一筋の希望というか、望みを賭けるようでグッとくるのである。
ほかにも出落ちの『あきましておめでとう』とかね。(こいつ<古典部>の話ばっかりだな。)
『犬はどこだ』のタイトルも秀逸すぎるし、『さよなら妖精』なんで言わずもがななのである。
前回の参加が『Iの悲劇』だったこともあって、特にそれを強く意識したため、直木賞受賞のお祝いと共に、その感想を先生にぶつけることにした。
『黒牢城』も深淵な各話タイトルが並んでいてとても楽しみです!! と。
先生も思ったに違いない。「まだ読んでないんかい!!」
改めまして、第166回直木賞受賞おめでとうございます。噛み締めて読みます。
最後の更新が2019年と言うことなので、2年間以上まるまる放置していたことになる。
それを唐突にこうして書いているのは、お察しの通り新しいガジェットアイテムを買ったから。ほんとキーボード叩きたいときにブログ更新っていうのはいい方法だな。
ただカチャカチャやるだけでもまぁ用は足すけど、それだとミスタイプがどれぐらい出るかとか、みたいな打ちやすさはよくわからないし。
というわけで今回手に入れたガジェットアイテムというのがこちら。
↓HKW.メカニカルキーボード
https://www.amazon.co.jp/dp/B01NARSLA9/ref=cm_sw_r_tw_dp_Z6SN17CT3NRRQS0PTQR1
タイプライタ風でキー一つ一つにLEDライトがついてて光るっていうちょっとジョークグッズっぽいキーボードなんだけど、ロジクールのPOP KEYSを電気屋の店頭で見てから、「タイプライタ風のキーボードっていいな」と思ってしまったので、それっぽいキーボードを探していたところで見つけたなかなかわいいやつ。
↓Logicool POP KEYS
https://www.logicool.co.jp/ja-jp/products/keyboards/pop-keys-wireless-mechanical.html
なんでPOPKEYSを買わなかったのかというと、丸いキーを上から見るとその下の四角い枠が見えるのでデザイン的にどうなん? と思ってしまったのであった。無線のメカニカルキーボードとはいえ安くないお値段するし。
そこで見つけたHKW.のタイプライタ風のメカニカルキーボードなんだけど、上記Amazonのリンクを見ていただければわかるように、有線のキーボードにしては10,000円ってそれなりのお値段がする。
無線のPOPKEYSと同じか、109キーにいたってはむしろ高いまであるよ。メカニカルキーボードってやっぱ高いのか? 上を見ればきりがなく、めちゃくちゃ高いキーボードも世の中にはあるんだね……リアルフォースとか……
キーボードに10,000円って出せる?
こだわらなければ1,000円台から買えるのに個人的には出せないかな……
と書いたところで、大学生のころiPadでレポート書くためにApple Magic Keyboard買ったなと思い出す。その時はまだ乾電池のモデルしかなかったんだ。懐かしい。そいつはJISキーボードで現在も普通に現役なのでMacBook AirはUSキーボードを心置きなく買えたんだよね。
Magic Keyboardは普通に10,000円を超えてくるので、「キーボードに10,000円も出せない」とかどの口がという感じではある。
だだまぁ、うちにはWin機は職場から貸与されたものしかなく、外付けキーボード買ってもリモートワーク時しか使わないので、やっぱり10,000円は出せないよね。
と思っていたけれど、最近の時世によってうちの職場でも週1でリモートワークをするようになって(それでも傍目にはかなりの低頻度みたいだけど)、貸与されているノートパソコンの使用頻度もかなり増えてきた。
そこでノートパソコンの出番なんだけど、キーボードがめちゃめちゃ使いにくい!
特に、バックスペースのすぐ右にNamlockがあるのがよくない。キーボード自体が狭いせいでバックスペースと間違えてめちゃめちゃな頻度で押してしまう。
消してるつもりで消えないどころか、ノートパソコンに頑張ってついてるせっかくのテンキーが効かなくなるので、効率がガタ落ちする。
ということで、やっぱり外付けのキーボード欲しいな。欲を言えばタイプライタ風のやつ欲しいな。でも10,000円は高いな。
と言う訳で、ぎりぎりボーダー上でアウトだったこのHKW.のメカニカルキーボード。
最初に見かけたのはAmazonなんだけど、どういうことか公式らしい商品ページが見つからない。
ただレビュー記事なんかは探せば出てくるし、それなりに使える代物らしい。ただ10,000円のボーダーが立ちはだかる。
そこでヤフオクで探してみたら定期的に出品がある。ストア出品が多くて8,000円程度。中古品の販路の一つなんだろう。
と思いながら数か月間くらいなんとなく眺めていたら、個人出品もたまにされてる。一度入札してみたけど落札はできず、5千数百円で終了。なんだ、ストア出品の8,000円はちょっと足元見てるな。
それで今回、個人出品のこいつを見つけた。やっぱりスタートは2,000円とかなり安い。
これはきっと買ったはいいけどいらねってなった個人の中古品なんだなと理解して入札。キーボードはよく触るものなので、中古品っていうのは少し気持ちが悪い気もするけど、職場のキーボードだって新品を与えられてるわけじゃないしね。メカニカルキーボードなので、キーを外して除菌ウェットティッシュで拭うのも不可能じゃないし。
結果として送料含め6,000円しないで落札した。
落札したもの束の間、発送連絡もないままゆうパックでご到着。配達記録を確認すると発送は到着当日の午後。なんていう速度なんだゆうパック。
開けてみると、これどうも新品のような気がする。
背面のラベルに擦り傷は少しあるけど新品の品物でもこれくらいはよくあるし、なによりキーボードに皮脂がまったくついてないように見える。キートップの銀のリングにも指紋みたいなものは全くついてない。というか箱の封緘も開けられてない。もちろん前のオーナーがちゃんと封緘した可能性はかなり高いけど、外箱にはテープをはがした跡が全くないし……
これはもしかしてかなりラッキー?
まぁラッキーってことでいいね!
公式サイトもないし、メーカーサイトもないし、Amazonとヤフオクで出回ってるつくづくよくわからない販路のこのキーボード、デザイン重視のためか謎の変則配列だけどパソコンからはJISキーボードとして見えているみたいでちゃんと使えるし、丸形タイプライタ風のキーに青軸のメカニカルキーボードがカチャカチャと音を立てるのがとてもいい感じ。
個人的に静音マウスとかあんまり好きじゃない(けどなんか持っているマウスは2つとも静音だ)し、店頭で静音の赤軸キーボードを触っても「なんかコスコスする感じがよくないな」と思う方なので、青軸のクリック感と音は個人的にかなりいい感じ。
これはかなりいい買い物をしたかもしれない。
次のリモートワークがちょっと楽しみだ。
最近個人でパソコンを持つのって何の意味があるんだろうってよく考えるんだけど、フルサイズキーボードで文章が打てることは思考を整理するにはとてもとてもとても都合がいい。
iPhoneのスワイプ入力だってかなり使いやすいけど、やっぱキーボードには適わない。
幸い、こうして思考を整理しながら吐き出す場所はあるわけだし、もうちょっとブログ更新してもいいのかな。
そういえばこのブログは読書の記録や感想の場として設けたはずなんだが、最近は読書すらしてない。もうちょっと初心に戻ってもいいのかも知れない。
ところでこのキーボード、メカニカルキーボードだからか、キーがかなり高い上に、キーボードの台座自体がかなり高くて手首があっという間に痛くなる。
漫画をリストレスト代わりにすると奥行もあっていい感じだけれど、リストレストも用意するかなぁ
MacBook Airを買いました(報告)
このブログも気づいてみたら自分のアップル製品に変化が起こった時に書くもののような感じになっているけれど、別にそういう意図はない。
単に動作確認でもしようかと言った時にキーボードぱちぱちするにはブログ更新が一番適しているので、いつの間にかこうなってしまうのだ。
2つ3つ前のエントリーでは「このMacBook Proできる限り使い倒していきたい」と宣言しているものの、2年も経たないうちにまた起動しなくなる事態と相成った。
しかも今度は無理な再起動をしたとかそういうこともなく、単にApp Storeから配信されていたOSアップデートをかけただけなのに……という悲しき状況。
正直、「そろそろMac買い換えた時に1TB構成なんか買えないから必要なデータは外に逃がしておこうかな」などと考えていた矢先のことだったので、正夢になったというかなんというか間の悪すぎる話だった。
またもHDDを壊してしまったのか、ついにMacBook Proに寿命が来てしまったのかと思ったんだけど、一縷の望みをかけて……というかむしろ、ある種起動しないことを願って(HDDの不良だとデータも死んでいるということなので)、遊んでたHDDをMacBook Proの中に換装。
まっさらなHDDを突っ込まれたMacBook Proは普通に……というかリカバリモードに入って工場出荷時のOS、つまりOS X Lionを再インストールすることに成功。
結局HDD不良かーい!
MacBook Proから出てきたHDDには某国内の家電メーカーのロゴが入っていたんだけれど、そんなに無理させたんだろうか。
そんな2年もしないうちに内蔵HDDをぶち壊すことになろうとは、もうコンピュータ側が寿命に近いのかも知れないという見地に立ってみることにした。
みることにしたが、無事にOS X Lionから立ち上がったMacBook Proも、ギリギリAppleから配布されていたEl Capitanにアップデートし、このままHigh Sierraにアップデートすれば、とりあえず息を吹き返したと言ってもいいだろうという感じになった。(新たなMacとして設定する必要はあって、つまりそれが嫌なんだけれど)
Time Machineの中身もちゃんと確認できてデータを取り出すこともできそうで、もうこのままでいいんじゃね? むしろ新たに1TBHDD調達さえすればTime Machineから完全に復元できるじゃん。という感じ。
しかし、しかしだ、
2年もしないうちにHDDを壊したのはもはやMacBook Proが寿命なんじゃないかという見地に立つと、それでは長期的に見てあんまり意味がない……
というわけで、結局のところ、8年近く使ったMacBook Pro、もはや減価償却もとっくに済んでるよねという感じで、最小構成のMacBook Airを買ってしまうかとある程度心に決めてジーニアスバーに持ち込むことにした。
新型のMacBook Airが出た時からいずれMacBook Proから買い換える覚悟というか予感はしていて、何度も考えてきたことだしね。
もう自分で原因の切り分けがほとんどできているのに持って行ったのは、Apple Storeの診断なら何か他のことがわかるかも知れないという気持ちがあったから。でも結論を言うと、HDDが悪いのかロジックボードとHDDを繋ぐ配線が悪いのかくらいまで進むも、その先はApple Storeでは特定できなかった。そりゃHDD換装してテストできない以上仕方のないことだ。
しかも私のMacBook ProはもはやAppleでも部品の保管をしていない古いモデルなので、念のための交換修理や、バックヤードに持ち込んで開封確認などをしてもらえるものではとっくになくなっていたので、正直打てる手はあんまりなかったのだ。
ということでその場でMacBook Airを新たに購入。
最小構成でUSキーボード。
iPhoneに搭載されてから幾度となく使っていきたTouch IDがMacにも搭載され、あまりの便利さに転げ落ちそうになったけれど、むしろTouch IDすら必要なくApple Watchを腕に巻いているとロックが自動解除されるとかいう機能が本気ですごかった。Apple Watchでロック解除、その機能が世に放たれたのはずぶん前だったと思うけれど、MacBook Proでは使えなくて悲しい思いをしたものだった……
Retinaディスプレイは時折店頭で見かけていた通り美しく、厳しい意見にさらされがちのバタフライキーボードもそこそそ悪くない感じ。そもそもラップトップにそこまでキーボード求めていないよね。
15インチ型MacBook Proは正直なところ可搬型パソコンとしては「持ち運びもできないこともない」くらいだったけれど、初代モデルが茶封筒から出てきたMacBook Airは流石に軽くて片手で楽々移動できるし、ラップトップという通り膝の上に置いてこの記事を着ていても全然負担にならない。
それでいて、13インチのディスプレイは必要十分の大きさを感じるし、全体的にかなりい感じ。
2011年モデルから2019年モデルへ一気に8年の技術革新! 8年もあったら小学生も大学に入るっての。
こいつを今後どうやって使いこなしていけるのか楽しみでもあり、持て余し気味でもありといったところ。
今後の流れとしては、新たにHDDを調達してTime Machineを完全に復元した上でTime MachineのHDDをフォーマットした上でNAS化……まで行かなくても平文でデータのバックアップを取る予定。
今我が家には128GBSSDのMacBook AirとWin機があり、MacBook Proは引退……の予定なので、理想はNASを導入してMacBook AirとWin機をシンクライアントのように使うこと。
バックアップとしてTime Machineはあまりにも優秀だけれど、Macがないと中身を取り出せないかつ、システム全体復元するにはバックアップされたシステムよりも大きなストレージが必要になる(当たり前だけど)という決定的な弱点があるので、Mac+Time Machine+Win機だとWin機が明らかに余計だし、1TBのTime Machineから128GBのMacBook Airにはシステムを復元できない。まぁMacBook Airも電源以外に何も刺せないんだけど。拡張性がありすぎて何も接続でないUSB-Cポート。
それが、Mac+NAS+Win機だと(通常使う端末の優劣はあれど)MacとWin機が並列になる……という予定。
しかし、Wi-Fiルータの機能を使った簡易NASを構築するとしてもルータやHDDを調達したら10,000円は普通にかかってしまう。まぁ普通にNAS買ったら15,000〜20,000円弱は見ておきたい感じだけれど。
というかMacBook Proも完全に死んだわけじゃないんだよな。
MacBook Airは、というか最近のMacは背面のリンゴマークが光らなくなったそうで、新しいMacBook Airももちろん光らない。ついでに、起動時の「ジャーン」もならない。
そこに一抹の淋しさを感じつつ、(個人用NASが流行ったのって結構前な気がするけど)新たな宅内ネットワークの構築に思いを馳せる。
でもま、結局iPhoneからは離れられないんだよね。そうなることをわかってApple Watch買ってるんだけど、Androidスマホを触るのもまあいい経験でした。Xperiaはやっぱり素晴らしい。日本の携帯万歳。おサイフケータイの無敵感はすごい。
そんな中で、(途中で修理してるけど)丸5年以上使っているiPad miniはまぁ稀有な存在と言えるでしょう。
しかし、そんなiPad miniくんもついにお役御免となりました。
このブログでも散々話題に出してきたiPad mini が、iPad mini4から数えて約3年半ぶりに刷新されましたね。
iPad mini 末永く使っていくと何度も引き合いに出してはいたけれど、流石にそろそろう動きが怪しくなってきて厳しい……というところに、新型iPad miniの噂が入ってきた感じです。
噂の更新を日々確認し、しかし「ほぼ確実」から一転「もう出ないだろう」とひっくり返されたiPhoneSE2の噂の二の舞にななること勿れと待っていた甲斐がありました。
結果はみなさんもご存知の通りです。最新のiPhoneと同等のA12Bionicチップを搭載したiPad mini(5th generation)がお目見え!
そして発表即日注文していたiPad miniがやっと手元にやってきました!
すごい……サクサク動く……具体的にはアイドルマスターシャイニーカラーズがSafariでもできるほど動く……iPhoneSEでギリギリだったアプリがぬるぬる動く……
私の手元にあったのはiPad mini Retinaディスプレイモデル……ないしiPad mini2なので、その発売からから数えると、6年間ものの技術刷新です。もはやタイムスリップレベル。
刷新された箇所はもちろんチップだけじゃないわけですが、個人的にかなり気にしていたのが広色域ディスプレイの搭載。
iPad mini2やiPhoneSEはsRGB準拠ですが、最近のiPhone、特に7以降はそれよりもかなり広い色空間を表現できるとのこと。新型iPad miniはiPhone7以降や最近のMacと同じP3(シネマ規格のDCI-P3ではなくApple独自規格らしい)に対応しているという話。
Xperiaを使っていた期間はそんなに長くないのですが、Xperia XZ1 Compactはトリルミナスディスプレイfor mobileを積んでいて、それでやるスマホゲームはめちゃめちゃ色彩鮮やかに表現されていました。多分コンテンツが広色域で作られていなくてもスマホ側で調整してるんだと思いますが。
結局2台持ちが長く続くはずもなく、Xperiaは手元を離れたわけですが、XperiaでやっていたゲームをiPhoneSEでやると、どうも色が褪せて見えるようになってしまいました。
目が肥えてしまったのだ……
まぁ、加工(?)されたものにこだわっていてもしょうがない。
でもiPad miniが広色域ディスプレイを搭載するって言うんでかなり期待していました。
結果としては……
iPhoneSEと同じゲーム画面などを表示させて並べて見比べたのはいいものの、正直なところ違いはほとんど感じられませんでした。
やっぱりコンテンツ(この場合はゲームアプリ)がsRGBより広い色空間で作られてるわけないんだ……Appleが「色の再現は業界最高レベル」と謳うわけですが、その通りで、Xperiaのように勝手に色鮮やかにしたりはしないわけ。
ただ、True Toneディスプレイは面白いもので、私の部屋の光源だとあっという間にiPad miniの画面が暖色になる。悪くいうと「黄ばんでいる」わけですが、これが意外に視認性がよくて、同じ環境下で同じイラストを見てもiPhoneSEでは白飛びして見えるところもiPad miniでは飛びが抑えられてちゃんと色彩が見えたりします。
部屋の光源がかなり暖色なのよねうち。白が白く見えない。
というわけで広色域ディスプレイについてはアテが外れたけど、コンテンツの方がsRGBを超えて作られてたら効果を発揮するのでしょう。
このエントリー、iOS版MicrosoftWordとApple純正Bluetoothキーボードで書いたもの。
大学の図書館で卒業論文を書いていたときの組み合わせ。
あの時のiPad mini2くんはもうないけど、こうして最新のチップを積んだほとんど同じ姿のiPad miniがここにあることをお祝いしましょう。
PS.iPad miniの忘れちゃいけない進化点に対してご祝儀的な意味を込めてApple Pencilも買いました。あると楽しい。楽しい。
おかげさまで丸1日はバッテリーが保たず、帰りの電車の中ではモバイルバッテリーに繋いでる、そんな状況が少し解消された。
以前にも話題に出してるように、AppleのGeniusBarは何度もお世話になっていて、MacBookはもとより、iPad、そしてiPhoneを持ち込んだことが何度かある。
初めてiPhoneを持って行った時は
「キャリアで売っている携帯とは比べ物にならないほどの手厚いアフターケアだ!」と少し感動したものだけど、
回を追うごとに「Appleの客が増えてる」と実感するのもGeniusBarだった。
いつ行ってもApple Storeは混んでるし、GeniusBarは予約取れないし。
GeniusBarの予約が取れなくて、急いで問題解決の糸口が欲しい場合、コールセンターに電話する、あるいは電話を向こうからかけてもらうという手が取れる。
ただ、忘れもしないあのとき、私がコールセンターで問題を解決しようとしたとき。
サポートは紋切り型の回答を繰り返すだけで、全然問題の解決にならず、結局iPhoneがバックアップから復旧することはなかった。
「ああ手厚いサポートだ。Apple製品使っててよかった」と思うことはできなかった。
いい加減引きずりすぎかとも思うけど、2010年頃のiPhone4の頃からの写真やLINEのログ、その他がバッサリ消えたのは本当に応える。
時間にして5年ほどの記録がバッサリ消えたのだ。
写真なんかは他の手段でもバックアップが可能だし複数の手段を取っておく必要はあったよな……と思うことは今でも数知れないし、そもそも、iPhoneを初期化することについてもっと慎重になるべきだった。
でも、それまで何度もバックアップから復元してきたのにできないなんて思うはずないじゃん?
そんなとき、もしも一対一で対応してくれるGeniusBarに持ち込んでたら変わったかなと思う。
サポートセンタはどうしてもその都合上電話が途中で切られたり、他の担当者に変わったりということもある。
サポートセンタのいかにもマニュアル読んでます。みたいな対応を、まさかAppleにされるとはその頃は思ってなかったのだし、今でもGeniusBarに行ってそう行く感じを受けることは少ない。
こういうどうしようもないサポートを受けてしまうと、Appleの顧客が本当に増えたんだなと思う。
だからと言ってかつての水準を保つ努力をしなくていいことにはならないけど。
せめて……と思って今2015年くらいの写真から復元を試みてるけど、Appleの箱庭仕様によって単に「抜き出した写真を入れ直す」ってことはできなさそうで頭をかかえる。
iCloud経由で写真が全て同期されると言っても2,000件を超える写真がWi-Fi経由で転送されるのを
待つのは時間がかかりすぎる。いつまでたっても写真は再生できない白いサムネイルのままだし、そもそも自動でオリジナル版をダウンロードするようにはなっていないらしく、ズームしようとして初めてダンロードが開始される。
しかもiCloud写真を無効にしようとした時のメッセージを見るに、ダブルタップしてズームしてダウンロードを促してもオリジナルサイズがダウンロードされるわけではないらしい。
まぁとは言っても、バックアップから復元できなくなって新規にiPhoneを設定した後かつ、今でも確認できるだけのたった2,000件だけど。
昨今の携帯は……などど言う必要もないくらい昔から、「写メ」とか言っていた時代から、携帯電話は僕らにとっては一番有用性の高いカメラだし、そうでなくてもネット上からダウンロードした画像やスクリーンショット、平たく写真、画像と言えるものを一番取り扱っているのは携帯電話。
これをちゃんとパソコン、私の場合はMacBookに、iPhoneとは別にバックアップを取っていなかったのは落ち度としか言えない。
でもサポートセンタに電話した時は「iPhoneが復元できないのは大層ご不安でしょう。ご安心ください、問題解決に全力を尽くします」と言って安心させてくれたのに、結局紋切りの回答しかなく、復元を諦めた過去を振り返ると、どうしても遣る瀬無い。
iPhoneが今尚人気なのは結構なことだが、あの時、それまでのデータが断絶してしまった時、Apple製品を使っている安心感や信頼感は断絶したように思う。
でもどうしてもiPhoneが好きなので、結局戻ってきてしまうのだ。
iPhoneの中で使っているサービスはGmailにGoogleカレンダー。
あの時、Googleフォトも使っていればよかったかも知れない。
iPhoneを使う意味って何だろうな。Apple製品の何が好きなんだろう。
最近眼鏡を新しく買った。
昨今の眼鏡は大層安く買えるが、奮発してお高い、いい眼鏡(のはずだ)を買った。
眼鏡っていうのはアフターサービスがつきもののような感じだけど、今後この眼鏡と、メーカーと、どんな付き合いになって行くのだろう。
いくつか前のエントリで、iPadを買ったときも、ピカぬい(ピカチュウぬいぐるみの略)を引き合いに出してるけど、まぁそういうことだ。
振り返って見ると、そのエントリだって2014年1月のこと。もうしばらくしたら4年を数えることになる。
>携帯に始まり昨今の家電は2年で買い換えることが多くなっていますが、願わくばこのiPad、永くわたしのよきデバイスでいてくれますように。
なんて書いているが、ありがたいことに倍くらいは私のよきデバイスでいてくれたんだなぁと思う。反面、まだ4年かという感じがしなくもない。もっと長いこと使っていたような……。
そんなiPadだけど、一時期は電源が入らない、充電もできない状態に陥っていて、純粋な文鎮と化していた時があった。記録を振り返って見ると2015年8月Genius Barに持ち込んでいる。電源が入らなくなってしばらく放置していた記憶があるから、実際のところもっと早くから文鎮化していたのだろう。
1年半ほどで使えなくなっていたものを、修理に持ち込むことで4年近くまで寿命を延ばしている上に、今でもiPadは壮健だ。iPad mini Retinaなんて行っていたのも遥か昔。このiPad mini2、今後も末永く使い続ける予定。
iPadは1度Genius Barに持ち込んで快適になったが、実は私のメインのコンピュータことMacBook Proはかれこれ3度はGenius Barに持ち込んでいる。
うち1度はHDDからロジックボードまで取り替える大掛かりな修理になった。
忘れもしない、iPhoneがバックアップから復元しなくなったあの時だ。わかってたことではあるけれど、あれは母艦であるMacBook Proに原因があったってことになるのかもしれない。罪深い話だ。
それでも、その大掛かりな修理からそろそろ丸2年ってところでまたしても持ち込み修理を依頼することになった。先月の終わり頃のことだ。
症状としては、起動が完了しない。リカバリーモードで起動しても、ドライブの検証も修復もできない。リストアすらできない。
すわ、これはHDDが壊れてしまったかとGenius Barに持ち込んで診断してもらうこと数分、すぐにHDDのスマートエラーということが判明。こうなってしまうとHDDの換装修理しかないとのこと。
HDDは確かに消耗品だが、2年前に変えてもらったばかり。でも2年を超えるとHDDの故障率は劇的に上昇するとのこと。頻繁にビジーアイコンがくるくるして動かなくなるこのMacBook Proのこと、HDDに負荷をかけていただろうと思うと、まぁそういうものなのかなぁ。
ところが、すでにこのMacBook Proは修理対応を打ち切っていると言われてしまった。
なんせMacBook Pro(Late2011)だ。製造中止から5年で修理サポートを打ち切るということだが、そろそろ満6年。気づかないうちにサポートが終了していたらしい。
Genius Barで診断を受けたところによると、HDDだけに問題を抱えていて、そのほかの箇所には問題がないとのこと。自前で換装すれば動くようになるというのだ。
裏蓋を自分で開けると公式サポートの対象外になるけど、すでに切れている以上気にすることはない。HDDを自前で調達してレッツ換装!
せっかくだから500GBで容量ないよ〜と言ってくるMacBook Proのために1TBのHDDを用意した。
作業工程はこれを参照、と言いたいところだけど、Genius Barの店員さんが必要な工具も手順も説明してくれたので難なく行うことができた。
裏蓋を精密ドライバー #0で開けて、トルクスドライバー T6でHDDをMacBook Proに固定するのに必要なビスを外して新HDDに付け替えて、外した手順と逆順で戻す。
これだけ。作業手順や画像はきっと探せばブログが大量に出てくるだろうから割愛。
換装したHDDにTime Machineから復元をかけて……。
復元しても起動しねぇ!!!
とちょっと四苦八苦あったものの、無事復元&起動完了。
めでたくMacBook Proは行きを吹き返しました。
復元後の起動ができなかった理由は単純で、復元先に指定した換装済みHDDをフォーマットする際暗号化指定していたことが原因だった。
暗号化されたディスクは起動ディスクにできないのね……
起動ディスクを暗号化したいときは、復元後、起動が完了してから、
「システム環境設定>セキュリティとプライバシー>FireVault」で暗号化しましょう。
めでたく復元したMacBook Proですが、やっぱり以前と同様一挙一動二府四十三県が遅い!
あっというまにビジーアイコンがくるくるして作業がままならない感じでした。特に日本語入力の変換キー押下でビジーアイコンが回ってしまうとこちらとしては返す言葉がない。
せっかく換装したHDDもこれではすぐ壊れそう。
というわけで数日アクティビティモニタを眺めながらMacBook Proを使って見たのだけれど、明らかにメモリが足りていない。
メモリプレッシャーっていうグラフ、実装済物理メモリに対してどれくらいの使用が発生しているのかを表示するグラフはほぼ常に前提の半分以上をマーク。すぐに黄色(危険域)に突入しているのが見て取れた。物理メモリ4GBに対して3.8~3.9GBは使用済みに突っ込まれていて、スワップが1GBも2GBも発生している。
HDD換装前は「容量ないよ」と頻繁に言ってきていたMacBook Proの様子を考えると結構無理させてたっぽいなと。
きょうびそこらへんのスマホでも4GB RAMくらい備えているよ!
スマホ並みかこのコンピュータ!
ということでメモリも換装しました。
調べて見るとと16GBでも動くってことだったけど、公式のスペックとしては8GBが最高。
今はなきレッツノートのメモリを換装したときも、サポートされるメモリ以上のメモリモジュールを突っ込んで、見かけ上は認識されていたけど、よくシステム情報を見るとはみ出した部分は使われていなかった過去もある。ということで冒険はせず8GBに換装。
劇的に改善されました!!!
一瞬一瞬にビジーアイコンを発生させていたMacBook Proですが、見違えるようにキビキビ動く。アプリケーションの起動、日本語入力、どれもこれもサクサク。
アクティビティモニタを見て見ると、メモリプレッシャーは半分以下を横ばい。使用済みメモリをみると5.5GB程度を常にキープしている感じ。
これを3.8GBに押し込んでいたなら確かに動きも悪くなるだろう……。
気になるスワップも80MB程度に抑えられ(多少発生するのは自然なことで、メモリが十分でも0にはならないらしい)、今までの4GBRAMでどれほど無理をさせていたのか実感する結果になりました。
ということで、そろそろ7年近く使っていることになるこのMacBook Proも、まだまだ現役でいてくれそうな予感!
「お手入れ」って簡単にいうけど、文字通り蓋開けて内部に手を突っ込んで本当に良かった。
ちなみに、HDD&メモリ換装にかかった費用は、どちらも8kほど。ドライバは持っていたので工具に関する持ち出しはなし。
ピカチュウは布の寿命が来てるのか、継ぎ目が目立つようになって来ていて、下手な手洗いなんかはもうできない。
iPadと違って自前である程度の部品交換修理が可能なMacBook Proは手入れができる間は使い倒していきたい。
という合同誌が、2016年9月25日のカラマスセブンにて頒布されていたそうです。
一応、「岡崎泰葉をメインにした初の合同誌」を銘打って頒布されたもの。
そうですというのは、私は会場に行くどころかイベントの日時すら把握していなく、
「TLでネタにされていたものがどうやら合同誌として結集するらしいな」
という程度にしか思っていなかった。なので他人事なのだ。
結果として岡メロ合同は当日完売御礼。
再販を望む声も多く、主催の一人に頼んで取り置いてもらってなければ私の手元には絶対にない。という状況と聞いています。
ここでは、裏から取り置きを頼んで手に入れた岡メロ合同を読んで、取り置いてくださった感謝のひとつの現れとして、感想と、このムーブメントを遠巻きに見ていた者として思うことを一つ二つ書いてみようかと。
まず感想。
この『岡メロ合同』その構図からして「岡崎泰葉合同」ではなく「岡崎泰葉とメロンパン合同」というところが既に面白い。
構図のおかげで出来上がったものが、主催陣の対談1の言葉を引用すると、「泰葉をあまり知らない人でも気軽に参加できる大喜利」で、全体として「メロンパンってなんだよwww」的な空気感に仕上がっているように思った。
合同誌の構成も、漫画もSSもギャグテイストな寄稿が多く寄せられている。メロンパンのリアルレシピが2回も3回も出てくる(何故)
でも表紙からめくっていると、あるギャグ調で始まった漫画のページをめくった後の大ゴマではっとする。
「あっこれ、単なる大喜利本じゃねぇ」と。
「星」をキーワードに持つモバマスアイドルは何人かいるけど泰葉もその内の一人。その漫画は「星」と「思い出」を話しの中心に据えたもので、大まかに「岡崎泰葉に取ってメロンパンは何か『贈り物』、『思い出』に根ざすものらしい」ということがわかってくる。
つかみはオーケーというやつだ。
そして満を持して出てくるのが泰葉P渾身のSSS(シリアスショートショート)。
「メロンパン」から構想を広げてかつてモバマスで共演(同じガチャかイベントかは忘れた)したアイドルと絡めてみたもの、そして岡崎泰葉の芸歴に重きを置いて「メロンパン」とはもしかしたらこんなキーアイテムなんじゃないの、と書かれたもの。
後者のSSはもしたら「岡崎泰葉を知るものが岡崎泰葉を知るものに向けて書いた」のではないか。とちょっと思った。じゃれあいのようなものを感じる。
私はそんなに詳しくないので「我こそは」と思う人は本人に凸撃してみよう!(責任は負いません)
それはそれとして、「芸歴」を主眼に持って来ることで、「アイマスの中で他に類を見ないほど芸歴が長い彼女2が歩んできた道」を一つの形として著した作品となっている。多くの人に読んで欲しいと思う。
テクニカルな話をすると、作品名とか、「これほど泰葉は名の知れた存在なのか」とイメージしやすい表現が随所に入っていて世界観がきっちり構築されているからか、読んでて安定感があって非常に読み易い。そしてリアルだ。
その後続く大喜利の後、主催の描く漫画が出てくる。
これも「星」と、もう一つ「アンドロイド」をテーマに持ってきた作品。
こと「アンドロイド」というモチーフを持ってくる元となっている「[プラネットスター]岡崎泰葉」のカードは泰葉にとって大きな転換を迎えた(直後)のカード。カード自体に付随するセリフはもとより、そのカードが上位報酬となったイベントでのセリフが非常に印象的なのだ。
で、この主催の漫画はイベントと同じように、地球へ行くところで幕を閉じる。
それが寄稿として収録されたラストの作品となり、地球へもどった読者は思うわけだ。
はぁ〜、岡メロは宇宙だ。
と。
ここから『岡メロ合同』に至る流れを外から見ていて思った事。(下世話にはばかりなく失礼させてください……)
正直、Twitterで生まれては消えていく「泰葉いじり」の一端がこんな形で結集するなんて毛ほども思っていませんでした。
泰葉TLには(泰葉TLってなんだよ)、本当にいくつもの「泰葉いじり」が生まれては消えていき、その中には人を不快にさせかねないものもあるんじゃないか。と思っていました。
(某百科にいまだ眠っている「○葉=泰葉」ネタを掘り起こしてみたらそういうリアクションを起こす人もいた)
しかしこうして、一過性のネタに過ぎないと思っていた「岡崎泰葉とメロンパン」というキーワードが薄くない本に結集すると、「なんぞ行動力って侮れんなぁ」という気持ちになっていく。
この合同誌がこうして人を集めた要因や、完売した要因を分析するのは対談1にて詳しく語られているけど、ニコ生をやってみたり、番組に投稿してみたり、という行動を起こす事が、結果に直結するんだなぁとシビアな事を考えてみたりします。
「こまめにサーチしてふぁぼってRTする」という行動だって、単純で手軽なようだけど非常に効果的でしょう。対談1で「僕の周りの人たちがメロンパンの写真をツイッターにあげて「はぁ~」って呟く、というような活動もやってくれて……」(対談1より抜粋)と言っているのも、「そうするとふぁぼとRTが飛んでくる」というのは「メロンパンを買って投稿する」モチベーションにつながり易い。
でも、手軽な事でも積み上げていく事が難しいことだっていうのも、行動を起こす事がむずかしいっていうことも!
僕らはよくわかっているはずなのです。
できるひとはすごい。
『岡メロ合同』、あとがきには「100%真面目で100%冗談」との言葉があるのですが、とにかく本誌はそれに尽きるな、と思います。
対談1で語られているように、「岡崎泰葉合同では、岡崎泰葉を知っている人が手にとって、岡崎泰葉を知っている人が喜ぶ」ものになってしまう。嫌な話をするなら、それが総選挙で常に上位にいるアイドルならそれでもいい。むしろ岡崎泰葉が常に総選挙上位にいるアイドルならば、『岡崎泰葉合同』を岡崎泰葉を知らない人が手に取る。しかし残念ながら、岡崎泰葉はそうではないのです。
ではどうするのか。
そのアンサーとして、「「なんだか岡崎泰葉界隈盛り上がってるじゃん!」というようなムーヴメントになれば一番いい」(対談1より抜粋)として、「100%真面目で100%冗談」で作りきったこの合同誌。「岡崎泰葉ここにあり」と大きく旗を振る、泰葉P渾身の一撃のように思います。
前者のSSS(シリアスショートショート)にはこんな一節があります。
「(略)ちょっとしたことだけど、私の中で確かに『楽しい』って思えることが、ステージの重さをそっと支えてくれるんです」
「……それって、余計な邪念……とは、違うの?」
「そうでもある……かもしれません。でも、楽しむ気持ち……(略)そういう気持ちを抱きながら真面目に取り組むって、……決して相反することじゃないと、私は思います(略)」
(AD田中『岡崎泰葉がメロンパンを食べ損ねる話』)
「岡崎泰葉はライブ前にメロンパンの事を思い浮かべて調子を整える」という衝撃の設定について語る台詞。
「メロンパンかよっ!」って言われるようなこと。
それこそがTwitterのネタも、リアル世界におけるモバマスアイドルプロデュースも、この合同誌の本質なのかなぁ。
ところで、収録作品の個人的イチオシは
サナサノ氏の『MPが足りない』
超好み。みんな読め。
こんなのも https://shindanmaker.com/668421
脚注
1 http://usagoe716.hatenablog.jp/entry/2016/09/05/000000
2 デレステによると彼女の芸歴は11年。つまり本家アイマスとほぼ同じ
と言っても、Win7とか8とかをアップグレードしたわけではなく、中古PCにWin10をインストールしたマシンを新規に買ったのでありました。
よかったWin10機が買えて。今更Win8を買って有償でアップグレードとか費用が掛かりすぎますし、かといってWin8を使い続けられる気がしない。
自宅のコンピュータはMacintoshで、そろそろ5年が経とうかというMacBookProなんだけど、当たり前に現役。
Mac使ってやることと言えば動画見たりネットしたりOffice使ったりという程度のこと。
実はかなりスペックの高いモバイルコンピュータなんですが、やってることは携帯でもできるようなこと……
せっかくのMacBookを全く活かせてないわけなんですが、そこはご愛敬ということで一つ。
ではなぜWin機を買ったのかというと、偏にMS Officeスイートが一つ、Accessの勉強がしたかったかからというわけなのでした。
Officeの基本的なアプリケーション群はIntel Macで問題なく動くんですけどね。Office for Macで卒論買いたしプレゼンもしたし。しかし、ことAccessに限ってはOffice for Mac にはバンドルされていなくて、どうしても職場で触るかなんならネカフェにでも行かなければ触れないという……
ネカフェのPCにAccessなんて入ってるのか?
MS Office Accessってご存知ですか?
私は去年だかに初めて聞いて、それまでは全く知りませんでした。学生のうちに触る機会はなかったし、Office Personalとかではバンドルされていないソフトですしね。個人向けではない、業務用のソフト。
というわけで研修に行ったり、テキスト読んで知ったことを書いてみる。
一言でいうとデータベースを管理するソフト。
例えばExcelで販売売上表とかを作って管理していたとします。いつ、だれに、何を、何個、いくらで売ったのかを表にしていく。もしかしたら、代金回収はしたのか・まだなのか、現金払いか・クレジットか・振り込みか、店頭販売か・通信販売か、手渡しか・郵送か、発送先はどこなのか、いつ発送なのかなどなど、一つの注文に様々な情報がくっつくことになるかもしれません。
これが数件、数百件、数千件程度なら何とかExcelでも可能でしょう。
Excelはぶっちゃけなんでもできるソフトで、レコードが一万数千件になってもデータ管理は可能です。数式を当て込んで簡単に請求書や送付書を作成することも可能。
ただ、とにかくファイルの容量が大きくなるし、それにしたがって動作も悪くなっていく。というのが最大の欠点。
そういう問題を解決するのがAccessということです。テーブルと言われるExcelシートのようなものにレコードを格納していき、クエリと呼ばれるフィルタ機能のようなものでデータを管理する。特に、Excelのフィルタ機能はレコードがある程度多くなると全然動かなくなるから、対象のデータだけ引っ張り出すクエリ機能の果たすところは非常に大きい。
テーブルはExcelシートに似ているデータの格納場所なのですが、
AccessのExcelと大きく違うところは、テーブルはなるたけ細分化して作りこんでおくことで真価を発揮するというところでしょうか。
Excelで売り上げ管理表を作るのならば、左端に番号でも振って、右に右に内容を継ぎ足していく形になると思います。
NO. 日付 品名 取引先 金額
1 2016/08/08 ノートパソコン Amazon 47,300
といった具合。
これが例えば、Accessだと
【テーブル:売上管理】
No. 日付 品名 取引先 金額
1 2016/08/08 01 01 47,300
【テーブル:取り扱い品名】
No 品名 金額
01 ノートパソコン 47,300
【テーブル:取引先】
No. 取引先 住所 電話番号
01 Amazon どこそこ なんばん
という構造になる。
これを必要に応じて
1 2016/08/08 ノートパソコン Amazon 47,300
こう呼び出して履歴を見たり。
どこそこ Amazon 御中 ノートパソコン一台
と呼び出して納品書を作ったり、値段を呼び出せば請求書を作ったり、ということをする。
というわけ。
これのなにがいいかっていうのは、レコード数が大量になったとき、あっちにもこっちにも「Amazon」とか「ノートパソコン」って書いてあるんじゃなく、指定された情報を呼び出してるため、無意味にデータが重複しないというところですね。たかだか「ノートパソコン」という文字列が何バイトなんだよって話は置いといて。数千数万というレコードを管理するわけだし、塵積なんとやら。
また、カタカナやアルファベットの全角半角表記のズレとか、表記ゆれを防ぐこともできる。ちょっと表記ゆれがあるだけで検索性は格段に下がりますからね……
クエリっていうのが、その情報を呼び出す設定みたいなもの。
例えば、「注文受付日」欄に日付が入って、「発送日」に日付が入っていない商品があった場合、それは「未処理」ということになります。これをExcelで行うとフィルタ機能を使って「注文受付日」の空欄以外を選択して「発送日」の空欄を選択して絞り出すと「未処理」を取り出せる。
Accessでは、その「『注文受付日』に日付が入り、かつ『発送日』に日付が入っていないものを取り出す」というクエリを作っておいて、それに「未処理」と名前を付けられるわけです。
未処理を出す程度ならフィルタで簡単だけど、もっと条件が複雑になると、今は何のデータを見ているのかわからなくなったり、再現できなくなったりと大変なことに。
数学の「論理」の単元で「且つ」とか「または」っていうのをやったと思うんですけどその論理式を使って条件を設定する、という機能なんです。
「発送日」の日付を指定してその日付が入っている「商品名」と「取引先」を取り出して送付表を作るという動作もあらかじめ決めておけばワンクリックで解決!
とまぁ、すごいやつらしい。
これを勉強して使えるようになってどうにかこうにか仕事に活かしたいところなんですけど、就業時間中にそんなことしてる暇もないし、しかしMacにはAccessないしでわりと詰んでました。というのが去年のこと。
それが今年に入ってからか、Mac Officeが2011から2016へアップデートされ、それに結構心惹かれてました。Office2011で特に不満とかないんだけど、仕事やプライベートでもOfficeを使うことはかなり多いので。
そこで候補に挙がったのがOffice360 Soloを契約することだったんだけど、それは「MacとWindows2台にインストール可能」というもので、Mac一台だけにインストールしても明らかにもったいない。Office360 Soloには目的のAccessもバンドルされているけどMacにはインストールできない……
こりゃもうWin機買うしかねぇよ! ということで本機の購入と相成りました。じつはこれ、実家にあったものと同じもの。なのでどんなものか大まかな目途はついていたので安心して購入。
デザインがいい!! 以上!!それだけ!!
それだけで買ったものですが、360度開けてタブレットのようにできるとか、その時の「タブレットモード」というタッチパネル主体で機能するモードが思いのほかWin10と相性がよくてなかなかいいですね。Microsoftが目指してたデスクトップとモバイルの統合とはこのことだったのか。
メーカー直販でなく、中古(新品箱なし)のアウトレット品なのですが、Office2007 Professional Plusインストール済みということで、Accessもプリインストールされていました。ということでOffice360の契約は不要!
あまりなじみのないUSキーボードですが、文字入力には影響はほとんどないし、むしろJISキーよりちょっとカッコよくて気に入ってる。
意外といい買い物になったかも。
以下引用
従来のメディアでは、個人が公に対して発言するには、その機会獲得などのさまざまな困難や、編集者などによる校閲が伴っていた。良くも悪くも、この距離こそ、思いを思考に、一面的な思念を客観的な意見へと練り上げるものである。
しかし、インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピュータに保存することと、ネット上に公開することとの差は、二、三のキー操作の差に過ぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは、〈発送〉と〈発表〉との間の落差がほとんど存在しない。(略)さまざまな情報とともに、何億もの個人のとりとめもない思いや理解や誤解がネット上にあふれる。これらは呼び出されなければ、無言のままにとどまっているが、ひとたび検索の網にかかれば、強大な力を発揮することになる。(黒崎政男『身体にきく哲学』NTT出版・2005年)
引用ここまで
高等学校の国語の教科書にも採用されているようで、よく考えたら模試か何かで読んだ気もします。
実際のところ、この本の主眼はインターネットの普及による自己肥大化ということには全く置かれていなく、この文章のあるところでは大まかに、
1、「世間」の縮小化
2、デジタルテクノロジーの普及によって「世間」にさらされた私の行動がデータベースされていく
ということの二点に置かれているようでした。
2、の私の行動がデータベース化されて行くというのは、単純にあちこちに履歴が残るということと、それを参照することで一瞬にしてそこに記録された「私(わたし)像」ができあがるということ。何か事件を起こすと卒業文集を晒されたり、ツイートを晒されたりして、「私像」が作り上げられて行くってやつですね。
本書では、その様子をフーコーの一望監視装置に例えていました。一望監視装置(パノプティコン)は、社会科の授業などでもやるのかもしれませんが、近代権力の様態を抽象化したもので、監視対象を主体的に従順なものにするというもの。
「いつ監視されているかわからない」状況に置いておくことで、「いまは見られてないから…」という慢心を起こさせず、囚人に常に従順な姿勢をさせることができるというものです。例えば、試験監督は、教室の前にいるよりも、教室の後ろにいて「見られていると学生に思わせる」ほうが試験の不正行為は減るといった論で使われます。確かに先生が教室の後ろにいると机の下で携帯をいじるわけにもいきません。
フーコーはこのような状態を、「自己の内面に監視者がいる」とし、「規律の内面化」としました(確か)。本書では、「規律の内面化」よりも、「いつ監視されているかわからない」ということに注目して、さらにその監視の履歴を参照することができるようになった。と言います。
このように絶えず監視され、有事の際は参照される私たちの記録ですが、何もインターネット上に発信したことだけに限るわけではありません。例えばインターネットの閲覧記録、例えば電車の乗車記録、例えば街中に設置された監視カメラ、例えばATMの利用記録、例えば電話の通話記録。 そこかしこで知らず知らずのうちに私たちは監視され、記録されています。
さて、上にあげた例のうち、一つはちょっとだけ持っている意味が違います。
それは街中の監視カメラ。
監視カメラが記録するものは私たちの物質的な身体を映したものです。他の例は電子的な情報を記録するものでこれだけわけが違います。この監視カメラの例で「私」を「私」として証明するものは私の身体ということになります。
最近はインターネット等のデジタルテクノロジーの普及によって、物質的な距離や空間はいとも容易く飛び越えることができるようになっています。映像の視聴、画像の閲覧、商品の購入、そしてコミュニケーションさえも。極論、Googleマップがあれば、現場に行かなくてもその様子は見ることができますし、絵を見るだけならば美術館に行く必要もありません。店舗を構える必要のないインターネット上のお店のほうが商品を安く売れますし、コミュニケーションが言葉を交わすことなら、遠隔的に言葉のやりとりができれば会いに行く必要なんてありません。
デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったように、私たちは身体なんて必要ない、思考する言葉さえあれば良い。
最近は、と言いましたが、インターネットの普及以前だって、TVだって遠隔地の情報を届けるもので私たちは自宅にいながら地球の裏側の情報を知り得ますし、そんなのはラジオだってそうですし、むしろ本だってそうですし、デカルトの言葉が残っていること自体が、私たちが身体を置き去りにして思考を主体として発展してきたことの証左と言えるでしょう。もっと言えば文字の発明が、私たちの言葉、つまり思考を、身体的なものから離脱させ、空間や時間といった三次元の物体的なものから乖離させたとも言えるでしょう。
しかし、「監視カメラに記録された映像によって私が私として認識される」というのは、私とから離脱していたはずの身体が、「私」を「私」として決定づけてしまうことになります。監視カメラに限らずとも、静脈認証や光彩認証などの生体認証が進んできたこともこの違和感に拍車をかけている。
「私」は「言葉」によって「私」になって「身体」は関係なかったはずが、「身体」によって「言葉」は関係なく「私」は「私」とされている。
「我思う故に我あり」じゃないんですか……
というのがざっくり、この本旨。
最近はSNS上で知り合った人と会ったり、地方に住んでる人が「東京○○」とか言っているのを妙な違和感を感じながら見てる。
こんなにインターネットやデジタルテクノロジーが進んでも、物質的な距離はいかんともし難い。
「私」を形作るはずの「思考」たる「言葉」を共有するのにはほとんど時間的空間的制約がなくなったのに、身体的物理的な距離は縮められない。
こういうことを考えるようになる、この本みたいなものが世に出るということが、文字の発明を皮切りに、「私」を「私」たらしめる「言葉」の共有で発展してきた歴史が行き着くところに行き着いたと示している感がありますね。
なぜって「言葉」と「身体」が一致ないし近い距離にあったときには、その乖離を話題にする必要がありませんもの。
結局、「我思う故に我あり」っていうのは、あまりにも全時代的な言葉過ぎ。
「言葉(=思う)」と「身体」が同じ空間にあったからこそ「身体はなくて言葉が私を私たらしめる」とわざわざ言う必要があったということ。
結局、「私」は「身体」から逃れられないのかなぁ……
キーワードは「宵の徒然」……と設定したのはいつのことなんだろう。サイトの上の方に掲げてあるから使ってるけど。
目の前にピカチュウのぬいぐるみがあります。そしてその隣にはつい先日買ったiPad mini Retinaディスプレイモデル。
一つか二つ前のエントリーで「iPadが欲しい」ということが書いてあると思いますが、ついに買ってしまいました。
わりかしポーンと買ってしまった印象ですが、何だかんだと何に使うのかとか、その予算とか、挙句には購入方法とかいろいろ考えていましたね……。「iPadを買ったら電子書籍を読もう」「論文をPDFで落とせばそれを読むのにぴったりだ」「パソコン持っていかなくても大学でレポート書ける」「セルラーモデル分割なら月々4,000円の負担で買えるぞ」とか……必死で自分を納得させようとしていたんでしょう。
挙げ句の果てには昨今話題のWiMAXに加入することで割引になるとか分割になるとか考える始末でした。
まぁ、WiMAXは確かに便路な代物だと思います。今使ってるのはOCNですけどちょっと高いですし、引越しの度に工事が要りますし。その点WiMAXは安いし、工事いらないし、特に出先にWi-Fiポイントを持ち出すと言う発想がすごい。裏を返せば、出先で使う無線回線を家の中でも使うということで、それはなんとも不安な感じがしますけどね……。結果として、ちょっと高いけどそれは品質というか確実性に料金を払ってるんだという親の言葉に賛同してOCNの継続使用が決定。まぁ将来どこに引っ越すかわかったもんじゃないので、WiMAXが入らないところに引っ越す可能性もあります。しかもそれは何年先の話しではなくて、再来年には大学を卒業して(できるといいなぁ!)就職が決まって(……)引っ越す可能が大なわけです。そういうことを考えると確かにWiMAXが選択肢に入らないことは明白でした。
結局、「欲しいものは欲しいんだ!」「分割でものを買おうなんてなんたる不健全!」「金がないなら買わない! あるなら買う!」という至極簡単な思考に相なり、iPad mini RetinaディスプレイモデルWi-Fi版32GBの購入に踏み切ったわけでした。iWorkもらえるし。
まぁ三年間のiPhone利用でiOSのアプリやアプリ内で購入したものはそれなりに残ってるし、本体以上にリターンがあるだろうという考えもあり……また母艦になるMacintoshもあるしでそこまで悩むことじゃなかったのかもしれません。まだ買って対して時間も経ってないから、今後どうなって行くのかはよくわかりませんけど。
というわけで、このエントリーはiPadでPagesを使って書いています。前半はランドスケープモードでスタンド兼ケースで立てながら。後半はポートレートモードで机に寝かせたまま。
予想外に入力がスムーズに行く印象でかなり驚いています。特にポートレートモードでのソフトウェアキーボード、初めはこんなもので入力なんてできっこないと考えていたのですが案外使える。買う前は一緒にワイヤレスキーボードを買うつもりでしたが正直いらないかな……。このエントリーはここまでで1,247字ですが、その程度の文章なら大した苦もなく入力できちゃいます。これなら自分を誤魔化すためだったのか本心だったのかわからないけれど、当初の目的だったiPadでレポート作成というのは問題なくこなせそうです。
今目の前にあるピカチュウのぬいぐるみは小学校入学前からの私物。つまり20年近く側にあるということになります。鮮やかな黄色だったはずの体も、今や灰色がかってゆで卵の黄身のような色合いになってます。携帯に始まり昨今の家電は2年で買い換えることが多くなっていますが、願わくばこのiPad、永くわたしのよきデバイスでいてくれますように。
最近「ブログの更新したいけれどネタがない」とか言っていたように、ちょっとブログの更新をしたい気分でした。
私の部ブログは本当にごく少数のいるのかわからないような読者に向けたもので、それこそ供給過多となっている作者の典型例のようなものです。
だから、基本的には何を書いてもいい。キーボドに向かって(カチャカチャカチャ…………ッターン!)としたいという欲求なのかもしれません。もしくはブラインドタッチの練習をしたいとか。
ネタがないけれどブログを書きたいってのはきっと文章が書きたい衝動なんだろうと理解するのですが、ではなぜ今やってるレポートは全然進まないのか。
今となっては大人気ソーシャルゲーム「アイドルマスターシンデレラガールズ」をやるだけのモバゲータウンとなってしまいましたが、中学時代に入会して高校2年から浪人生にかけてもっともSNSとして機能したモバゲーはそこそこ……いやかなり楽しかった。
日記を移植しながら当時の日記を読み返したりそのコメントを見たりしてるとなんか感慨深い。以前も言った気がするけれど、当時は日記を大量に生産しては大量に削除していたので記録がそこまで残っていないことが寂しい。
しかし一般的なモバゲーユーザー(知らんけど)に比べたらそこそこの量があるんじゃないだろうか。
日記を読み返すと痛々しいとまでは行かないが、「若かったんだなぁ」と思わないでもない。そんなの、この日記を読み返した将来の自分が間違いなく言う台詞だってのは重々理解していますけれどね。
日記を読み返す作業は好きです。そして日記をつける作業や時の自分の気持ちを叙述することも好きです。
自分にとっての世界というのは、自分の五感の及ぶ範囲のみ。当時の気持ちも時の自分の五感が及ぶ範囲のみによって形成される。そして、五感で捉えた「事実」の解釈はその時の考え方や持ち合わせている知識理解によってなされるもの。つまるところ、時間とともに世界は変化するものどころか、あまりに世界ってのは不安定で流動的で、だからこそ当時の世界を叙述したものを読み返すのは面白い。
人間は「記憶」や「予期」によって世界を四次元的に把握していて、それはつまり目の前に展開する世界だけでなく、過去や未来にあった世界や起こり得る世界を幻視することがでるってことだけれど、(こういう叙述をするとき、「人間だけが~できる」という叙述を見ることが多いけれど正直その言い方は好きません。たしかに人間はそうであるけれども人間以外がそうでないとはどうして言えるのか。それこそ、「自分にとっての世界は相手にとってもそうであるだろう」とする考え方ではないのかと。)その営みを真っ正面から行っていることになるんだね。日記を見返す作業というものは。
最近、「世界とは」「存在とは」「言葉とは」とかっていうどうにも哲学的な問いかけに直面することが多くて参る。
「哲学とは何ぞや」というというに対して「考え続けること」と答えた人は本当に的を射た答えだと思うけれど、同時に「何言ってんのお前」みたいにも思える。何も答えてなくねそれって。ただまぁ、事柄を「普遍性」「論理性」「客観性」で以て説明して答えを出そうってのは科学の仕事であって、近代の哲学は科学を否定するようなものだから、そういう意味では近代哲学にふさわしい答えとも言えるかもしれない。
なんなんでしょうねこの雑記とも言えない何かは
最近、友人との会話にiPadが登場することが多い。だからって訳でもないが、自分もiPadが欲しくなってくる。
正直なところ、iPadはいったい何に使えばいいのかよくわからない中途半端なデバイスなのだが、それは一応電子書籍リーダーなのだと自分の中で結論づけたことがある。それがiPadが世に出た直後のことで、アップルの新製品が自分は変えないということをなんやかんやと理由を付けて正当化しようとした結果が、「何に使うんだこれw」ということだったのだろうと思う。
それが最近になってまたiPadが欲しくなってしまっている。それは友人との会話に頻繁に登場するからというのが一つと、自分の本棚が明らかな容量オーバーを起こして一度倒壊したからというのが一つ。そしてもう一つ、授業中に、「もっと本を読め」と発破をかけられたことによる。正直最近の自分の文章力は、確かに一番本を読んでいた時期よりも明らかに下がっているように思う。TwitterやLINEに対する依存が高まってきて、改行の習慣や、長文を構成する能力がなくなってきているように思えるのだ。
本を読まなければ文章力の向上が見込めないといい、文章を書かなければ文章力を磨くことはできないと授業ではいうわけ。
そして私たちは言語を用いて思考してそれを発する訳だから、文章力の向上=言語能力の向上=思考力の向上と繋がっていく。少なくとも、思考した結果を発することができなければ、いかに崇高な思考をしようともそれを言語化できなければ意味がないよね。自己完結してもわかってもらえないよね。ということかな。
ということで読書をしようと思うんだけれど時間もなければ本を買っておく場所もない。
ということで電子書籍に目を付けた。買っておく場所に着いては言わずもがな電子書籍にそのような心配は無用な訳だし、時間については、普段iPhoneの画面を睨みつけている時間のほんの三分の一ほどが読書の時間に変われば、それだけで何冊の本を読むことができるだろうという考え。肌身離さず持ち歩くものだし。
そこまで考えたところでiPadを買う必要はないことに気がついた。iPhoneでいいじゃないか。
ということでiPhoneの電子書籍リーダーであるところのiBooksとKindleアプリを使って移動中の電車の中、歩行中、散髪中に夏目漱石『こゝろ』を読みふけってみた。以下はその比較。
iBooks
良い点
・ リーダーの触り心地がよい。
・ ページめくりのアニメーションがよい。
・ リアルな紙の本にこだわったユーザーインターフェイス。特に、見開きにしたときの中央の溝、左右のページが重なったデザインがとてもよい。
・ マルチタスクでアプリに戻ってきた際も同じ画面。
悪い点
・ 文字の大きさの変更幅が小さい。最小の設定でもまだ大きく感じる。
・ 文字がそろっていない。妙に短い行や長い行が存在することがある。
Kindleアプリ
良い点
・ リーダーの文字サイズの変更幅が広い。無意味に巨大化しない。
・ きちんと文字がそろっている。
・ マルチプラットフォーム(iOS、Android、Windows)
悪い点
・ ユーザーインターフェイスが機械的。
・ ページめくりがスクロール
・ マルチタスクでアプリに戻ってくると本文表示の前に読み込み画面が入る。
細かいことだけれど、細かい使用感っていうのはとても大事……。
とくに読書に関していえば、文章を追いながらもそれを感じることなく情景に没頭するには些細なことで気を散らすわけにはいかない。
そういえばiBooksはPDFリーダとしてもかなり優秀なので、おすすめ
今年も、「記録/回想」をよろしくお願いします。
とか何とか始めたところで、このブログを定期的に見ている人がどれほどいるのかと言ったところです。
定期的に見てもらう必要はなくとも、たまに覗いて見てもらえるのは、表現者の端くれとしては嬉しいことです。前にも述べたと思いますが、筆者は読者がいなくても存在し得ますが、読者は筆者がいないと存在し得ないので、筆者はいつでも供給過多なのです。
供給に溢れる筆者のうち、私の文章を読んで頂けると言うことは、それだけで感謝しないとならないことなのでしょう。少なくとも、私は今これを読んでくれいているあなたに感謝の意を送ります。
願わくば、この感謝の意を受け取ってくれる読者がいらっしゃいますように。
ところで、年始と言えば初詣です。
日本で一番初詣の参拝客が多いのは明治神宮だと言われます。噂に聞くところによると、本殿の近くに寄ることも出来ず、参拝客の頭上を越えるようにお賽銭を投げるそうですが。しかもその投げられた賽銭を受け止めるのはあの見知った賽銭箱などではなく地面に敷かれたブルーシートだとか。
風情もへったくれもあったもんじゃない上に、そんな風に一斉にお願い事をされても故明治天皇も困るだろうに。
ということで初詣、神奈川は江の島の、江島神社に初詣に行って参りました。日本百景江の島、都心にほど近い観光地、名勝地と言うこともあってそこそこの混雑でしたが、恐れていたほどではありませんでした。
参拝に一時間くらい待ったかな。そんなもんでしょう。
そんなことより、小田急電鉄片瀬江ノ島駅から江の島までつながる橋が辛かった。
風が強くて砂浜から砂が飛んでくる!
私は写真を撮ることがそこそこ好きで、正直どこへ行くにもやっすいCyber-shotを持っていきたいものなのですが、このご時世、ところ構わずデジカメを構えるわけにはいきません。その点、名勝地として名高い江の島ではそこかしこにカメラを構えている人も多く、割と気兼ねなくカメラを回すことが出来ました。
カメラ付き携帯電話が普及し出したのは何年前だったか。いつでもインターネットにつなげることが出来る端末にカメラを付けるって、よくよく考えたら恐ろしいことですよね。一億総スパイ制度。ネットにつながらないデジカメを振り回す方が何倍もマシってもんです。
そんなわけで振り回していたCyber-shothで妙に神々しい写真が撮れました。写真を撮ること自体は好きだけど、デジカメのオート設定に任せた撮影をすることが主で、そもそも写真を撮るためにどういうファクターがどのように関与してくるのか全くわかっていない素人なので。
この奇蹟の一枚、再現できませんね。正直、取れた瞬間はテンション上がりましたが、よくよく考えたら光が入りすぎていると言う点で、そこまでいい写真じゃないのかもしれません。
まぁそこは文章と同じように、見る人の評価に任せることにしましょう。表現者はいつだって、少数の閲覧者に評価を委ねるものです。自画自賛になってもいけませんし。ところでこの自画自賛、原義的に悪い意味のみの言葉というわけではないのですが、それはまぁ、別の機会でいいでしょう。
話は戻って江島神社ですが、江島神社は日本三大弁天の一つと言うことで、琵琶を型取った看板などが散見されました。音楽の神、財宝の神、七福神の一人である彼女のもととなったヒンドゥー教のサラスヴァティーは知恵と言葉の神と言いますから、私にもなかなか縁の深いことです。
サラスヴァティーと言えばペルソナにいましたね。あんまり強くないけど。
琵琶以上に散見されたのは所謂「トライフォース」。あの三角形を三つ合わせたもの。本殿や琵琶やらに記されていたのですがあれはどういう意味を持つのだろう。
神社で参拝を済ませて、参道にある海鮮料理屋で昼食。
江の島名物(?)生しらすを食べられなかったことは心残りですが、とてもおいしく、値段の割に量もあって満足。
しかし、釜揚げしらす丼1,050円の他、それより高い味噌汁、伊勢海老の味噌汁1,500円以上とか、鯛の活作り2,100円とか、食べたかったなぁ。
しかし流石は江の島と言うべきか参道には海鮮料理屋が沢山ありました。折角そんなに遠くない名勝地、ちょくちょく行きたいものです。
と決意を新たにしたところで、新年の抱負。
「V字回復」
どうぞ本年も「記録/回想」ともども、わたくしひとみをよろしくお願い致します。
ちなみに江の島からの帰りはバスを使うことにしました
1字を正方形のマスに見立てる事の出来る漢字や、漢字を基に生まれた仮名に見られる大きな特徴は縦書き、横書きのどちらにも対応できるということだろう。漢字や仮名は原則として縦書きされることを想定して筆順や自体となっているが、左から右への横書き、左横書きにのみ対応しているアルファベットと比べるとその柔軟性は一目瞭然だ。
この漢字仮名交じり文の使用や、縦書き文化は印刷技術や情報機器の発達に大きな課題となって立ちはだかったという。確かに活版印刷の原理を考えたら、漢字は字数が膨大である上、縦書きの仮名崩し字を活版で印刷しようとするのはどう考えても逆に効率が悪い。
今となっては情報機器の発達で日常的に使われる漢字の大部分はサポートされているし、ワープロソフトも縦書きをサポートしている。以前利用していたノベルサイトでは「縦書き表示にも対応しています」と言いながら、実態は縦書き文書の画像が表示されるということもあったが、最近はそういうこともなくなり、アップロードしたファイルを縦書きに変換することも出来るようだ。恐ろしいことにサイトを縦書き表示するブラウザというものも開発されているようである。パソコンの発達で一時期は漢字や縦書き廃止という説も出たそうだが、実際のところ実文化を変更するよりもパソコンを発達させる方が速かったと言うことか。
日常的に縦書き横書きを併用している私達だが、どうしてだか、小説や評論などの長い文書を読むときは縦書きを好む傾向があるようだ。特に、新聞などの文書が横書きというのは謎の違和感を覚える
……
最近文章を書いていなかったのでちょっと練習。
最近おすすめのアプリはこれです。
各社新聞の社説を縦書きで読めるというアプリ。文章が縦書きなので画面を横にスクロールします。
(今回の記事はこのApp Storeのリンクを埋め込むのがやりたかっただけなのだ)
実際、縦書きや横書きの使い分けってその文章の量や内容ではなく、その書式に依るものが大きい。ウェブサイトなんかは縦長なので横書き。ワープロの発達の舞台が北米とか欧州なこともあってパソコンの標準は横書きって漢字がするけれど、実際、日本がウェブの先陣を切っていたら縦書きになったかと言うとあやしい。そもそも縦書きを使用する文化だって世界的に見ればそう多くはないわけだ。
漢字を使用する上で弊害がないなんて言わないし、ガラケーと呼ばれた携帯電話の発達のように、文化に固執して世界から取り残されることがいいとは言わないが、「折角」、数少ない漢字を使う文化なんだから、「折角」数少ない縦書き文化なんだから、大事にしていきたい。だってなくなったらもったいないもの。
とかなんとか。
まぁこのブログを定期的に見ている人はいないだろうと思うので別にいいのですが。
ということで前期の試験が全部終了しました。今日。
やったー
ところでレポートはまだ二本残っていますが。
先月の最終週からレポート漬け試験漬けで正直生きた心地がしませんでした。
一番面倒だったのは漢文のレポートですか。なんと、漢文の白文を手書きで写してそこに返り点送り仮名を付けて書き下して、現代語訳と語注を付けるという内容でした。しかも全部手書き。
その上に面倒なことは、参考文献のコピーを添付しなさいというもので、禁帯出の図書を探し出してはコピーしてと異常に面倒な作業でした。しかも参考文献を添付するって、それを見てやれって事なので、現代語訳に語注なんてその文献を手書きで写すのと全く変わらない作業と相成りました。
なんで大学に入って文献の写本なんぞしなければならないのかと言う……
「手書きだからこそ頭に残る」なんて考えているのなら時代錯誤も甚だしいものだと思いませんか。正直、漢文を手で書くからこそ理解が早まるなんて根性論に近いものを感じます。義務教育の漢文教育だって「教科書の漢文をノートに写して現代語訳してみよう」なんて日本全国たぶんどこでもされていることでしょう。そういうことがまかり通っていることってなんか問題だと思います。本文丸写しなんて、時間と労力と筆記用具の無駄。
その点、まだ残っているレポートはワープロで作成して教授にメール添付で提出と、なんとも今風。
情報革命というか、IT革命が起こって随分経つというのに、旧態依然としているのは見苦しいと思うんですよね。
とは言え、紙の本廃止とか言われたらたぶん駄々をこね続けるでしょうし、未だにCDを買うのが大好きな私です。
自分に都合がいいことだけIT化して欲しいのですね。勝手なことだけれどまぁ物事は塩梅が重要と言うことで。
革命つながりで、今日MacOSXをMountainLionにアップデートしました。
Twitter連携やそのあたりはこの記事を使って試してみようと思っているので何とも言えませんが、リマインダーの独立やメモアプリなんかはすごく使い勝手が良さそうです。
Macは中学生の頃からあこがれていたコンピュータですが、購入に踏み切ったのはiCloudが異常に便利そうだったからです。Windowsを使っているときもiCloudコントロールパネルを入れて使ってはいたのですが、正直IEは使ってないしOutlookも以て内侍で意味がすごく薄かった。
まぁMacを買ってからもブラウザはOperaを使い続けたのですが……しかし今回のアップデートでSafariも随分使えるようになったらしいです。いままでほとんど使わずにいたのでよくわかりませんが……
何はともあれ、今回のアプデはiCloud連携がかなり強化されているみたいです。リマインダーしかりメモしかり。
最近はTwitterが自分の中で再加熱しているのでその連携が気になるところです。
しかしこの文章はメモ.appで作成してるのですが、正直意外と重いですね。日本語入力はATOKを使っているのですが、変換に時間がかかっている印象。スペースを押してから表示されるまでややタイムラグがある感じ。まぁその間にも次の文字が打てるので、いきなり何文字もパット表示される感じでしょうか。しかし検索候補を表示しようろスペースバーを連打すると即ビジーアイコン。なんなんだか……
ATOKじゃなくてことえりだったらスムーズなんでしょうか。
とかなんとか
mixiもそうですが前々からTwitterをやっていたわたしは最初は彼の「Twitter始めた! フォローよろ」という趣旨のmixiボイスをスルーしていたんですが面と向かって「始めなよ」と言われてしまえばごまかすこともできずに素直に自分のアカウントを明かして彼と相互フォローと相成りました。
うむ。独白の場で隠し立てをしてもどうしようもないので白状するとはっきり言ってTwitterのような自己の拡張の場までリアルに晒さないとならないというのはなかなか気分を重くさせるものでした。
ただでさえ最近リアルの人間関係に不満を薄く薄く重ね初めていてネガティブ入った意味深なツイートばかりしていた(気がする)のだからなおさらです。
確かにmixiボイスとTwitterは共有していたけどmixi(リアル)とTwitterの線引きはしていたつもりです。つまりTwitterのポスト>mixiボイスのポストという状況。mixiボイスに投稿したものはTwitterにも自動投稿され、Twitterにしか投稿したくないものは直接投稿していたからです。
人間関係に不満を持つ仲良しグループ(!?)に不満を持って愚痴をこぼすなんてお前は中学生かよといった感じですがマジです。我ながらこんなことになんで気分を重くしているのだろうと自問することしきり。『友達いないと不安だ症候群につける薬』(齋藤孝/朝日新聞社 2005)でも読んでろって話で。
以前読んだ評論には
「ネットのサービスの充実によって自己が拡大している。
著者だけがいっぱいいてしかし編集はいない。脳内で発生した言葉を即座に 世間の衆目に晒す事ができる
普通であれば著者⇒編集⇒出版(世間へ)という流れが、著者⇒世間というようになっている。
自己の考えを世間に発信するための垣根が低くなって(もしくはなくなって)、それはすなわち自己が拡大している。
世間なんで「自己」と「世界」の「間」なんてなくなっている」
とい内容の事が書いてあったように思うけれど(うろ覚え)、脳内に浮かんだ言葉を直接垂れ流しているmixiボイスやTwitterや、あるいはブログだって、拡大した自己そのものなのですね。
自分の脳内を直接晒しているそれは、例えば私なんかは自分の中だけでなく何らかの形で外に出したいと思っているフシがあります。だから彼がコミュニケーションツールとしてTwitterをはじめる前々からTwitterをやっていて、リアルには晒せない自分の中身としてつぶやいていたのでしょう。このブログだって同じです。そういう意味ではごくごく少数を除いてリアルの友人よりもネットを通じてであったごくごく少数の友人の方がわたしを知っているかもしれない。
もちろん、作家がいっぱいいて、いっぱい世間に自己を発信しようとも、読者がいるかどうかはわかりません。著者は読者がいなくても存在するけれど読者は著者がいないと存在しないのですから常に著者は供給過多なのです。ごくごく少数のネット越しの友人がわたしの発信したものに目を通したかなんてわかりません。ネット越しの友人の方がわたしを知っているかもしれないというのはあまりに楽観的にすぎるものです。
見られていてもいなくても、発信したいのです。
ただ、それを例えば大学の友人のようなリアルには発信したくないのです。特に彼らが当事者となるような愚痴なんて。
というわけで受験期にTwitterを見る時間を少しでも減らすためにフォローを絞ったロム専アカウントを「現実逃避垢」と名付けてそこに自己の内側を拡張することにしましょう。
リアルに向けた外面を取り繕う。ネット上でも。
なんでこんな面倒なことしてるんだろうね。
その評論では
「編集いなくなることで程度の低い文章が世間に溢れかえる」
ということもやや問題視していました。
程度の低い文章を晒してしまって申し訳ない
とかなんとか
アニメ化に関連するわけではなく、原作で言うところの「後継者育成編(?)」のあたりから面白くなってきた気がします。まぁ球磨川が出てきたあたりから急に面白くなってたのですが、後継者育成編で加速したとでも言うべきなのか。そもそもわたしの中では球磨川がどこら辺で登場したのかよくわかっていない……めだかボックスは単行本を買っているわけでもなく、ジャンプは立ち読み派で話しの骨子はわかってもそれも背骨のような太い柱だけで小骨のような枝葉末節や関節のような話のつなぎやそもそも骨ってどんな順番で並んでいるの? と言った有様で球磨川が登場した当たりから単行本を買おうかしらと考えていたところでした。
それもめだかボックスのアニメ化によって中古市場が高騰してかなわぬ夢となったわけですが
多筆家で知られる西尾維新の著作は数多く、その中でも代表作と言ったらやはり<物語>シリーズなのでしょうか。しかし<戯言>シリーズも間違いなく代表作でしょうし、「西尾維新と言ったら」という設問に対して「<戯言>」と答える人間は「<物語>」と答える人間よりも多いでしょう。
わたしは「<戯言>派」です。と言うかメフィストにデビューした当初から読んでましたし。
中学生かそこらの当時は西尾維新大好きでしたが、個人的には<戯言>と<世界>を読んだのでもう満足です。でも<物語>読んでみたいなぁ。
シャフトの演出や表現はかなり好きで、だから化も好きだしアニメで満足するものありかなぁとも思いますが、やっぱり西尾は読まないとなぁと思ったり。アニメはアニメ、原作は原作、で好きになりそうな予感。
西尾維新文庫で化物が出たら買いますよ。講談社ボックスは紙がいいわけでも表紙がいいわけでもなく、むしろ本そのものの質は低いものなのにあの値段では全くもって買う気になりません。バカにしてんのか
で、話は逸れたけど結局言いたいことはめだかボックスおもろいよ、途中からは。ということですかね。
球磨川が出てくるまでは不知火半袖がかわいいだけの漫画なので……まぁ狂言回し不知火のレトリックの効いたセリフ回しも何気なく西尾風で楽しい。
これから読むなら単行本お勧めですよ。各話の前の白いページにおまけの一コマ漫画がついていてそれが毎回面白くて作品+それでなんだかお得感。
あー
多少高くても買おうかしら。でもちょっと前までの¥350が¥400じゃ買う気になりませんよねぇ
ブログの更新時にはその記事の投稿時間まで指定することができるので当時の時間に合わせて、あたかもその日付にブログを更新したかのように。
最近ネット上に自分の個人情報を書いてしまって問題になるケースが増えているようですが、特にmixiやTwitterにその傾向があるみたいですね。
Twitterはその投稿の手軽さに柵が低くなっているのか、まるでメールのように相手と相互にコミュニケが取れるからなのか。DMと公開ツイートを取り違えて個人情報をばら撒くということも笑
Twitterは鍵付きでもない限り一つ一つの発言にURLが紐付けられた公開文書なわけですが、それに対してmixiはなんとなく閉じたコミュニティの用な感じに錯覚してしまいますよね。
当初は招待制であったという背景や、マイミクというシステムの為なのか。しかしその実態、「全体に公開」である限りmixiの会員ならばその文書を読めるわけなので全然閉じているわけではない。
Twitterもmixiもデフォルトの設定が公開状態なのもどうかと思いますよね。ネット上で個人情報を書いてしまう様な人間がそもそも公開状態なんか気にするわけないし。
話がそれてしまいましたが、mixiにあげていた日記というのはどうしてもマイミクやリアルの友人を意識した文章や内容になってしまうので、ブログに転載するときには大筋を変えない程度に文章を書き換えないとならないのですね。
と言っても大して変えてないので場合によっては特定も用意でしょうが……
ネットリテラシーというのも、それなりに重要なのですね。
とかなんとか
とは言っても祖父母にとっては遠出というわけでなく、地元のホテルに宿泊したという印象なのでしょうが。
仙台秋保温泉のホテル瑞鳳に宿泊してからの日本三景松島のホテル大観荘のレストランという流れ。松島からは祖父母の家に行き一泊。
こうして書いていて気がついたのですがホテル瑞鳳、ホテル大観荘はGoogle日本語入力の予測変換で出てくる。ということはそんなにも検索されているのかと驚くことしきり。確かにすごく豪華なホテルでした。あんなの何年ぶりだろう。
瑞鳳で泊まった部屋は次の間&離れのついた驚きの広さの部屋で、八人という大所帯でも余る勢い。ホテルのロビーに川があって建物の中に滝があって、カメラを持っていったものの館内をばしばし撮影するわけにもいかなくて残念! まぁ気になった方は公式サイトのギャラリーでも見てください。
ホテル大観荘は以前泊まったことがあるらしいが駐車場に上がる急な坂道しか覚えがなくていったことはあるのだろうが泊まった記憶はない。一体いつのことなんだろう。レストランで頂いたフレンチはとても美味しくてしかしあれが一人2,500円っていうのはどうなんだ、安すぎやしないか。日本三景松島を一望できてとても素敵でした。月の出るタイミングをあわせれば月の橋が見られるらしい。ぜひ行ってみたいものです。
旅行記というには貧弱で、なんとも形容しがたいこの駄文をブログ更新という名目のものとに捧げます
正確に言うなら駅まで歩いてそこから電車に乗ったわけですが、そんなことはどうでもよくて、バスに乗るような雨ではなかったので最寄り駅まで歩いたのでした。
最寄り駅までは徒歩20分くらいでバスはちょうど路線が自宅から離れています。自宅最寄りのバス停から出ているバスは最寄り駅から2つ離れた特急の停まる少し大きめの駅に向かっていくので。
夜になるにつれて雨が強くなるとのことなので帰りは特急で帰ってバスに乗ろうと考えていました。
散髪を終え、せっかく電車でここまで来たのだからと日本一の繁華街で何かして帰りたいなと思ったところでミスドが百円セールをやっているのを発見。ちょうどポイントカードの更新ができる時期に入っていたのでそこで一服しようと考えたのですが、どうせならおかわり自由のコーヒーを頼んで文庫本とじゃれ合おうと思いつきました。
そこで回れ右をして紀伊國屋書店へ。よくわからないけれど一時間近くそこにいて、結局一冊の文庫本を手にして退出。本を買うなんてものすごく久しぶり。米澤穂信『柘榴』が収録されたMysterySellerを購入したのですが、いつから始まったのか、紀伊國屋ポイントカードなるものをやっていて入会してきました。
本屋のポイントサービスっていうのは多分、HonyaClubが一番大きいのではないかと。加盟店多いし。自分が初めて入会したのは地元の本屋のHonyaClubでした。これってHonyaClub加盟店ならポイント共有できるとか多分ないよね。たぶん、それぞれのチェーン内でないと。今は最寄り駅前にあるLIBROがHonyaClubに加盟しているのでそこでお世話になることが多いのですが、この紀伊國屋ポイントカードはそれではありませんでした。還元率は100円⇒1ポイント=1円とまぁまぁよくある還元率。HonyaClubとも同じですね。一応繁華街に行ったら何かと立ち寄ることの多い紀伊國屋ですが、あまりお世話にはならない気がする。
正直本を買ってポイントが作って言うのは少し前まであまりなかったのではないでしょうか。クレジットカードで買い物をするとかなら話は別ですが、厳密にいえば本の買い物にポイントが付いているわけではないので。それこそヤマダ電機が書籍の取り扱いを行なっているのが稀有な例だったような気がします。HonyaClubはそんなにも加盟店を増やしているのだろうか紀伊國屋の脅威となるほどにと邪推していしまう。そもそも紀伊國屋ポイントカードがいつから始まったのかも知らないで語っていますが。ちなみに期間中(3/20(火・祝)〜4/22(日))に紀伊國屋新宿本店、新宿南店で入会すると100ポイントもらえるらしい。
それはともかく、目的はポイントカードに入会することではなく文庫本を買うこと、ではなく、ミスドで一服することだった。ということでミスドに向かうも満席。じゃあ仕方がない。特急に乗って駅まで行ってそこにあるミスドに行こう。そこからバスで買える予定だったしと完全に目的を履き違えて電車に。
しかし全然雨強くならない。じゃあ最寄り駅で降りて歩いて帰ればいいんじゃない? いやいやミスドに行くならそこじゃダメでしょ。でも目的ってミスドに行くこと? 雨を回避するためにバスに乗るためでは。つかそこのミスドなら買っても持ち帰って自宅で食べればいいじゃないか。あーそっかぁ。じゃぁミスドでドーナッツ買って帰ろうついでにポイントカードの更新もしてこよう。どうせそこからバス出てるんだし。いやいやバスに乗るのは雨を凌ぐためでしょ? 雨強くならないじゃん。あれじゃあミスドのある駅まで行かずに最寄り駅で降りればいいんじゃ。いやそれだとミスドに……
あれ、なんで文庫持ってるのこれ繁華街のミスドでドーナッツ食べながら読むはずでは
あれあれあれあれあれあれあれあれあれ
結局ミスドでドーナッツ買ってバスで帰った。
ドーナッツ美味しかったです。桜味シリーズなるものが出ていて、桜ホイップが一番美味しかったかな
文庫? まだ読んでないけど
Htmlを直接変更できるのはやはり便利なものだと思う。高度な設定はできないけど……
「自分のホームページを持ちたい」と小学校のころ父親に相談したことがある。父親の概略てきな説明では枠を幾つもつくってそこに画像を入れたり文書を入れたりして作るんだといった内容だったと思う。確か。
今になって思えばそれはいわゆる「テーブル」「テーブルレイアウト」のことで、当時はCSSなんてそんなに一般的じゃなかったのだろうか。いや今はテーブルは必要ないとかそう意味ではないけど。
結局それを実行に移したのは中学校に入ってからで、フリーのテンプレートを持ってきて、細かいところのHtmlを手書きしてサイトを作ったのだった。結局作ったはいいものの肝心のコンテンツがなくってそのサイトはお釈迦になった。よくよく考えてみなくてもわかることだがコンテンツがない箱だけなんてなんの意味もないし。結局のところ「ホームページを作る」という作業をやってみたかっただけで、何かを発表する場がほしいとかそのようなことではなかったのだ。
まさに本末転倒というか、手段ではなく目的だったんだそれが。
日記でも書けばいいじゃないかという噂もあるが、そのころはもうただ日記を書くだけならブログを使えばよかった。絵師さんのサイトだって日記の部分だけ外部のブログを使っているというのがいまでは一般的だし。わざわざHtmlで日記を書く人もいるまいて。
で、今回変更したのはHeadの部分。サイトをブックマークしたときやタブバーなどに表示されるアイコンを変更したのだ。アイコンはこちらからお借りした。ありがとうございます。
CSSの話じゃないけど、最近はブラウザによって表示が乱れるということもあまりなくなったように見受けられる。父親の影響で結構長い間Operaを使ってるけど(るなすけを使ってたこともあったなぁ懐かしい)表示がへんてこになるサイトも殆ど見かけない。
そうそう、変更といえば、今月の頭から私の環境に盛大な変化が訪れました。
ついに憧れのMacintoshを購入したのです。
OSどころか何もかもを一新する大変更ということで結構ワクワクしたのですが、時代が下ってしまったのか大した変化もないような。いや、もちろんそんなことはなく、細かいところも大きなところも上げればキリがないのですがなんというか、したいと思うことはほとんどが変わらずできる。やっぱりIntelっていうのはすごい。CPUの仕様が違ったらそうはいかないもの。正確にはIntelがすごいというか仕様・系統が同じCPUだから同じことができるのかすごいなぁといった感じで……
なんか超独自感! といった感じはなくてちょっと残念だけど、PowerPC時代のMacだったら欲しいと思わなかっただろう、というか思わなかった。IntelCPUを採用したこと、マイクロソフトと提携したことは自分に限らず最近のMacの普及に大きく関係していると思う。
なんというか、グローバル化グローバル化と言われ続けて久しいけれど、全体的に世界がひとつになりつつある気配がするような気がする。ことIT関係は先進国が支え引っ張ってるんだから当たり前といえばそうかも知れないけど。とは言えPC/AT互換機でないMacがこれから市場に増え続けるのならば、PC/AT互換機がデファクトスタンダードである時代も終わっちゃうかもしれない。
この文書はMSOfficeとの互換性を追求したオープンアプリケーションLibreOfficeで書いたもの。ファイルの形式は.docxかな。こういうアプリのお陰でMSOfficeが使えなくても(Mac用に発売されたけど)デファクトスタンダードに準拠していける。グローバル化だね。
とかなんとか
キーワード「デファクトスタンダード」
2008年当時想い出そうにも何やら記憶が混線していて困ります。確か初めて作ったブログはこれではなかったと思われる。初めてのブログ、teacupに登録していたアドレスはもう長時間ログインしなかったことから大層前に消えていて、そのブログも多分残っていないだろう。中学生の時だったかと思う。
フリーメールというのは厄介なことに長時間使わないと消えてしまうのですよね。今メインで使っているのはアップルコンピュータが提供しているiCloudのアドレス。
ついこの前まではYahoo Mailが第一で、それも中学生の頃に作った一番古いものをずっとずっと使い続けていた。当時の思い出がどういうことか記憶のページの中で一番輝いているのなぜだろう。最近そのページがよく目繰り返される。高校の頃のページを軽くふっ飛ばしてそのページを捲りたくなるのは一体なぜなのか。
話は逸れたけど、Yahoo Mailとそれを提供するYahoo IDっていうのは長時間ログインしないと消えてしまうもので、でも誰でも無料で好きなだけ作れるんですよね。当時の私が何を思っていたのか知りませんが、今でも使っているメインのID意外にもサービス別にいろいろIDを作っていました。前述のteacupもそうですし、ニコニコ動画用のYahoo Mailアドレスも持っていました。結局そのどちらも消えてしまって、今では最初に作ったブログもないし、ニコニコアカウントもない。
ニコニコは確かニコニコ動画(β)の頃だったと思う。何か見たい動画のためにアカウントを作ったのはいいけれど、その後そんなにはまらなくて忘れてしまったとかそういう感じだと思います。
いつからか各サイトのパスワードを全て統一してしまったのでメールアドレスがなくなろうとそいつを思い出せばログインできるのですが、当時はそういうこともなく。ニコニコ動画に関して言えば、アドレスは覚えているのにパスワードを思い出せない。変更しようにもそのアドレスに送られたメールは読めなくて(そもそも存在しないことになってるのでパスワード変更用のメールは送信不可でニコニコ動画のサーバーに帰っているはず)結局そのアカウントは諦めたのでした。
話がそれたけど、この忍者ブログは統一されたパスワードでした。アドレスはもう存在しないものだったけど、過去に持っていたアドレスをいくつか試して「このアドレスは登録されていません」というメッセージが出ないものと統一パスワードでログインすることが出来ました。よかったよかった。
こうしてなくなってしまったアカウントやそういう変化したものを考えると気分が不思議な感じになります。
こうして歳を重ねてみると「歴史」というか、平たく言うと「古参」って結構侮れないことなんだなぁと変なことにこだわってしまいます。携帯電話の「090」とか。
だから「古参」とか「歴史」とかそういうもののためにはこのブログを諦めるわけには行かなくて、例え黒歴史だったとしても、そうでなくても、かつてコメントしてくれていた方がもう来なくっても、過去にあったことは間違いなく今の自分を形作っているものであるハズなので(黒歴史で形作られているとは思いたくないが)、このブログ、もうちっと大事にしてみようかと思います。
「神田の古本街」を巡った直後で正直あまりにもくたくただったのでもうさっさと終わらせようとて、ぱっと目についた本を買ったわけですが、それが
『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一/キネマ旬報社)だったですが……
まぁ、以前から存在は知っていて、興味はあったのでいい機会でした。
エヴァのときも謎本とかエヴァの通して社会や心理学を語る本が妙に出版されたそうで。けいおん!が「けいおん楽器特需」を起こしたように出版業界に「エヴァ特需」を起こしたらしい。
でもねー
そういう本ってあんまり好きじゃないのですよ。
「人気の作品の名前をつけておけば売れるとでも思ってるんだろ」とか考えてしまうので。
というか小さい頃ハリーポッターのそんな感じの本を買おうとしたら親にそう言われたのでそれが抜けてないというかw
結局アニメを取り上げてあくまで筆者のポリシー、時代感を表現するものであって、アニメの深淵を語るわけではないでしょうし。
でもこの本は「オフィシャル評論」と銘打つだけあって徹頭徹尾アニメについて掘り下げてあっておもしろかった。
「まどマギ」は三話以降どんどん登場人物が死んでいくアニメでしたが、「誰々はどうすれば死なないのか」とかを真剣に論じたりしていておもしろい。かと言ってネット上に書き散らされている感想や妄想にとどまらず、過去の様々な作品や、「まどマギ」関係者のインタビューなどを引用していて、「まどマギ」の脚本の考察として異様によくできあがってる。
こういう考察を読むと考察がスゴいのか脚本がスゴいのかと思ってしまいますよねー
そんなこの本ですが、
レジにて言われた一言
「イベントには参加されますか?」
よくよく話を聞いてみたらば、本日12日、三省堂書店にてその刊行記念トークイベントが行われるらしくて、購入先着100名に整理券を配っているらしい。
折角だから行ってきました。
行って少し後悔した。
大学生くらいの年齢なんていない。中年男性ばっかだ……
トークイベントはざっくばらんに言って「まどマギ」を「Jホラーと関連づけてみる人」「SFとして見る人」「古来から続く美少女が不条理な目に遭う様子を楽しむエンターテイメントとしてみる人(魔法少女ものとしてみる人)」に分かれてそれぞれが十五分づつ論じるというもので、それぞれがそれぞれおもしろかった。
終了後に列にならんでサインもらってきたけど、そういう一瞬で気の利いたこといえる人ってうらやましいな。
長くなったけど、まぁ滅多にない機会だし、行ってよかった
あ、そう言えば参加者は記念にうちわをもらえたんだ。写真はサインと記念うちわ
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